地方自治総合研究所

MENU
月刊『自治総研』

2003年自治動向番外編


業績評価にジェンダーの視点を
嶋田暁文
 先日、ある論文(大杉覚「『硬い/である』職場から『柔らかい/する』職場へ」『地方公務員月報』2001年6月号)を読み返した。この論文の中で、著者・大杉は次のような設問を紹介している。
【設問】
 ある日、急ぎの重大案件を抱えた某部長は、部下のA君とB君に下命することにした。その案件は、期限は明日の朝までで、合格ラインは80点であるとする。
A君は、頭脳優秀な職員で、要領よく夕方5時までに仕上げて、さっさとアフター5を楽しみに帰った。出来ばえは85点であった。B君は、頭脳はあまり優秀ではないが、まじめで努力家で、徹夜して仕上げた。出来ばえは90点であった。
 さて、上司としてどちらにいい評価をつけるべきであろうか。その理由も挙げよ。
(*これは数年前に『都政新報』という東京都庁や都内の市区町村職員向け新聞に投稿されたコラムの一部だそうである。)

 大杉は、実際に授業その他の場で、学生や自治体職員にこの設問にどう答えるか聞いてみたという。すると面白いことに、学生と社会人とでは対照的な評価を下すという結果が出た。7割から8割の大学生がB君にいい評価をつけると答えたのに対し、社会人では逆に7割前後がA君を高く評価したのである。
 B君を評価する学生には「結果の良し悪しだけではなく、努力というプロセスを評価すべきだ」という考えが多かったようである。これは、年度末の授業アンケートで出席点を是非つけてほしいという意見が意外なほど多いということとも符号するという。「まじめに授業に出ている学生にしてみれば、サボっている(しかもノートを貸した)学生と同じようにテストだけで客観的に評価され、場合によってはより悪い成績のこともあるという苦い思いをしているからなのではないか」というのが大杉の推理である。
 一方、社会人の場合にはA君を評価する割合が圧倒的に多かったわけだが、この理由として、「社会人は、学生とは反対に、プロセスや努力といった物差しのはっきりしない評価基準(さらにいえば、職場のじめじめした人間関係、派閥など)に左右されがちな現状(=B君タイプが評価されやすい職場)に対して否定的な考えをしているのではないか」と大杉は推理している。

 このような大杉の推理がどこまで当たっているかはともかく、わたし自身にとっては、まずもって、学生の多くが努力型のB君を評価すべきであると答えたという結果そのものが意外だった。というのも、「若い世代ほどドライな考え方を支持する傾向が強い」と考えていたからである。当然、今の学生は(ドライな考え方を貫く)A君の方を高く評価するものだと思い込んでいた。ところが、(少なくとも大杉の調査では)結果は全く逆だったわけである。

 人はある物事に関心が集中すると他の物事が見えなくなってしまう。この時のわたしもそうだった。“意外さ”が邪魔して、「この設問にはジェンダーの視点が欠けている」という点に当初は全く気がつかなかったのである。このことに気がついたのは、必要があって二度目に読み直したときだった。

 考えてみると、この設問は、「“お役所(組織)にとって”どのような職員が好ましいか」という価値基準を前提として成り立っている。たとえば、上司がB君の勤勉さ・真面目さを高く評価したとして、それはあくまでB君のような人材を評価することが最終的に組織のためになると判断した結果であろう。A君、B君いずれを高く評価するかは、「組織にとっての損得」の観点から判断されているのである。

 これまでの日本の組織では、B君タイプが高く評価されてきた。会社のため、役所のため、ひいては国家のために努力を惜しまず、自分を犠牲にして全体のことを考えるような人間が求められてきた。最近ではA君タイプを評価すべしという考えが少しずつ強くなっている感があるが、「組織にとっての損得」という観点で考えるなら、こうした従来型の評価のあり方は現在でもなお一定の有効性を失っていないと思う。
 しかし、もう少し視野を広げて「どのような社会を作り上げていくか」という視点に立つなら、「従来型評価では困る」とわたしは思う。

 何も、全体のことを考えて行動すること、目的達成のために努力を惜しまないことなどが不必要だとか駄目だなどというつもりはない。それはそれで大切なことだ。そうした姿勢や努力を“適切に”評価することは今後も必要不可欠といっていい。だが、客観的な結果よりも姿勢や努力の方を重視するというのは問題だ。そうした評価の仕方ではジェンダーにとらわれない社会を実現することはできない。評価のあり方を考える際には、ジェンダーの視点が不可欠だと思う。
 たとえば、B君が毎日遅くまで残業することによって、家事や子育てなど家庭のことはすべて彼の奥さん一人がしなくてはならない状況にあるかもしれない。彼女は自分のやりたいこともできない…。また、B君のように残業をしなければ会社で認められないとすれば、共稼ぎをしながら家庭も仕事も両方ともベストを尽くしたいと考える夫婦は、いずれか一方を選択しなければならなくなるかもしれない。さらにいえば、B君が男性でなく女性であったら、体力面での男性との差異ゆえに、過酷な徹夜生活に耐えることができないかもしれない。その結果低い評価を受けるとすれば、昇進の場面で男性よりも不利な立場におかれることになろう。上記設問にはそうした“想像力”が欠如している。

 「組織にとっての損得」の観点から考えるなら、「A君とB君、どちらを評価すべきなのか」という上記設問には決まった答えはない。組織にとってどちらがより有益な人物なのか、それをどう判断するかによって答えは異なることになる。
 一方、「ジェンダーの視点」から考えるなら、上記設問に対する答えは決まっている。答えは「A君」である。努力家のB君を高く評価してあげたいという気持ちも分かるけれど、そうした評価をし始めると、仕事と家庭の両立が難しくなる。ジェンダーにとらわれない社会を実現するためには、“客観的な結果重視の評価”が望まれるのである。

文責 : 嶋田暁文