地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』2026年2月コラム

「黒川の女たち」から

昨夏、松原文枝監督「黒川の女たち」を渋谷のユーロスペースまで観に行った。第2次大戦敗戦直後、関東軍に取り残された満蒙開拓団が苦難の引き揚げをするなかで生じた性暴力とその後の経緯を題材とするドキュメンタリー映画である。岐阜県黒川村(現白川町)の村民中心に送り出された黒川開拓団は、引き揚げ途中、侵攻してきたソ連軍に現地での安全確保をしてもらうのと引き換えに、ソ連軍将校の要求に応じ、開拓団の若い女性15人に性交渉の相手をするよう強要した。それが題材の起点となる事件である(松原文枝(2025)『刻印 満蒙開拓団、黒川村の女性たち』KADOKAWAも参照)。

戦時中、満蒙開拓団をもっとも大量に送り出したのは府県別では長野県で、なかでも県南部の下伊那や木曽の町村が送り出しに積極的に協力している。平成大合併ブームの際、その下伊那にある泰阜村の松島貞治村長がブームに乗らない理由を語るとき、満蒙開拓団の歴史を引くことがたびたびあった。泰阜村は1938年7月村議会で分村を議決したのち、開拓団員1,230名を満洲に送り出し、うち632名が生きて帰らぬ人となった。国策に乗じて経験した過ちを繰り返していいだろうか。「今度こそ、国の方針に沿えなくても、村民の幸せを第一に考えたい」(松島貞治(2007)『松島語録-地方自治は山村から考える』自治体研究社:36-37)。わたしが満蒙開拓団に関心を持つようになったきっかけはいくつかあるが、そのうち1つはこうした松島語録に接したことにある。

映画を観てしばらくして木曽に帰省した折り、思い立って白川町黒川まで車で出かけ、作中に登場する「乙女の碑」の建つ佐久良太神社を訪ねてみた。思わぬ収穫だったのは、そこで偶然、わたし同様「黒川の女たち」をユーロスペースで観て現地を訪れた人と出会い、黒川村や泰阜村とは対照的な道を歩んだ例を描いた著作-大日方悦夫(2018)『満洲分村移民を拒否した村長』信濃毎日新聞社があるのを教えてもらえたことである。

泰阜村の隣に大下条村(現阿南町)があった。そこに1937年5月から1943年12月まで断続的に2期村長をつとめた佐々木忠綱がいた。佐々木は1938年5月から6月にかけ、下伊那郡町村長会の満洲視察団に参加し、そこで2つの実状に強い印象を得て帰国する。1つは「開拓」とは名ばかり で、日本人の入植農地は現地で暮らす当時の言葉で満人から収奪したものにほかならないこと、もう1つは「五族共和」とは名ばかりで、現地の日本人が満人や朝鮮人に横暴な態度を取っていたことである。その後、佐々木が満蒙開拓の国策に非協力の姿勢を貫く原点にはこの体験があった。

国は長野県内で佐々木村政2期目と重なる1942年度に下伊那郡、翌43年度に西筑摩郡(現木曽郡)を満洲開拓特別指導郡に指定し、ねらいを定めて集中的に国策の浸透を図った。だが、そうした逆風のなかでも佐々木の姿勢は変わらず、敗戦間際に国策の中止が決まるまで、ついに大下条村が分村して開拓団を送り出すことはなかった。

佐々木がそうできたのも村長としての実績、とくに地域の医療や教育に対する熱心な取り組みが村民に支持されていたからである。その取り組みは戦後1946年9ヶ村組合立阿南病院(現県立阿南病院)の開設、1950年14ヶ村組合立下伊那阿南高校(現県立阿南高校)の開設といったかたちで実を結ぶ。以上が大日方(2018)の要旨である。

佐々木が非協力の姿勢を貫けたのは、法制度上、それが可能だったからでもあることをここで指摘しておきたい。満蒙開拓は、昭和恐慌を契機として1932年から始まった農山漁村経済更生運動に途中から満洲移民事業が接ぎ木され、その枠組みのもとで国が府県知事-町村系列の行政圧力と補助金給付により、町村に強く分村を迫った国策である。だが、分村するしないを決めるのは町村の権限に属するから、町村の協力が得られない限り国策として貫徹できない限界もそこにはあった。そして佐々木は分村しない権限を行使した。

もう一度、松島語録にもどる。松島は平成大合併に関し「今回の市町村合併推進が、なぜかこの満州開拓と重なってならない」と語る(松島2007:37)。どちらも国策として進められ、村民に不幸をもたらすものだからという含意でだろう。

それとまったく対比的な意味でも、この2つの国策事業をめぐって重なるところがあるといえるのではないか。分村するしないと同じく、合併するしないも町村固有の権限である。その権限を行使して、かつて満洲移民事業の際、分村しない判断をした大下条村の例があったように、平成大合併ブームの際、泰阜村をはじめ合併しない判断をした町村があったからである。

こはら たかはる 地方自治総合研究所研究理事・早稲田大学政治経済学術院教授)