「SDGsは大衆のアヘンである!」
一昨年の秋、書店の店頭で、上の惹句が目に留まった。すでに評判となっていた、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』である。本を開けた最初のページ、1行目の文章、目に留まったというより、押し寄せてきたというようだった。印象的な言葉だから、内容も全部わかったような気になって、本を書店の棚に戻そうとした。とはいえ、もう1ページくらい見ないで読んだことにするのは失礼、少し先を適当に開いてみると「MEGA」と書いてあった。GAというのはドイツ語で「全集」、現在も刊行途中のマルクス・エンゲルス全集のことである。
半世紀ほど前、刊行され始めた「手稿」を一行一行、一日で一ページもいかないくらい、読み続けていた日々を思い出した。完全な無駄とは言わないまでも壮大な「無」に投じた努力だったようだ。青春の影を買って帰ることにした。だから手元には斎藤氏の本の「一刷」がある。
このことが遠い偶然となって私に2つの事件を呼び寄せてしまった。
一つは、自治研全国集会(第39回)静岡自治研。10月7日から8日、静岡県コンベンションアーツセンター・グランシップ他で開催された。
夏の頃、打診されて、全体会でのパネルディスカッションの司会をお引き受けした。今度の自治研集会が参加する最後の全国集会になるやも知れず、多少の恩返しをしてもバチは当たらないだろう。何度かパネリストの間で打ち合わせをし、素晴らしい実践の話を引き出す心の準備もできた。私がまとまった話をするわけではないので、気も楽だった。
事件はその後にやってきた。
だいぶ直前になって、今度は全体会午後一番で記念講演をする斎藤幸平氏の後、短く登壇し、コメントをする、その後に、お三方の特別講演、報告が続くのだが、そのそれぞれの後に、司会の横でコメントをするという依頼だった。いくらなんでも講演者にご無礼だろう。
前日のリハーサルに呼ばれて、詳細な台本を渡された。他は全てセリフが入っているのに、その「コメント」の部分はセリフがない。講演を聞いて自分で考えろというのだろう。これは事件だ。ホテルに帰って、本を読み直し、用意されたレジュメと動画をもう一度見る。確かに、パネルディスカッションは斎藤氏の提起を受けて、今こそ「コモンズ」について考えようというテーマが決まっている。そこに無理なく道筋をつけていく進行は必要だろう。それにしても大変だ。
ただ、間際だったが、コモン・コモンズについてもう一度考えた。これは幸いな試練だった。帰宅して、エリノア・オストロムの「コモンズの管理」と宇沢弘文の「社会的コモンキャピタルの経済分析」を読み直した。勉強の機会に感謝。宇沢の本も「コモン」だ。
もう一つの事件は、私に起こった事件でもないし、斎藤氏の責に帰す事柄でもない。
例の旧統一教会の一連の事件が、マルクスの「宗教は大衆のアヘンである」という「亡霊」を呼び起こしてしまった。斎藤氏の「SDGs」は言うまでもなく、元は「宗教」である。若き日のマルクス、25歳の時の文章だ。ヘーゲル法哲学批判序説、180年も前の文章である。「宗教という悲惨は、現実の悲惨を表現するものであると同時に、現実の悲惨に抗議するものである。宗教は圧迫された生き物の溜息であり、無情な世界における心情であり、精神なき状態の精神なのである。宗教は民衆の阿片なのだ。」(中山元訳)
麻薬なんかやめておけ、という趣旨ではない。顛倒した世界意識としての宗教。現実が変わらない限り、宗教を追い出してもまた溜息は洩れてくる。天国の批判は地上の批判へと移行し、法の批判、政治の批判へと移行するはずだ。自民党の苦しみはアヘンを必要とした。その批判を政治の批判へとちゃんと繋げていけるだろうか。これは事件だ。
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