先日、母の入居する老人ホームの家族運営懇談会というのに参加してきた。ホーム運営法人側の用意した議題は、今度の10月から消費税が10%に引き上げられる。ついては利用者さんのご負担もほんの少し増えるので、どうかご了解いただきたい、というものであった。質問して、具体的にはどのくらい負担が増えるのか。(余計なことだったが)、今話題のように、私の母は年金以外に収入はない。働ける身体でも、働ける歳でもない。(金融庁金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書の提案そのもののように ― そんな知ったかぶりはもちろんしなかったが)、年金で足りない分は、父が遺してくれた金融資産(といっても決して多くはない普通預金)を取り崩して今の生活を維持している。家族にも覚悟が必要な状況になっているので、負担増加分を具体的に知りたい。運営法人側の回答は、まだはっきりしないというものだった。この運営懇談会は6月の末。今年3月28日の官報によれば、消費税引き上げにともなう、介護報酬点数の引き上げが告示されていた。それによれば、訪問介護で1点(引き上げ幅で0.3%から0.6%程度)、訪問入浴で6点(同0.5%程度)くらいなので、負担が大幅に増えるわけではない。消費税の負担は8が10となると25%増なので、それに比べると介護報酬点数の増加は微々たるものだ。しかし、「まだはっきりしない」ということはない。「はっきりしない」のは、介護報酬点数のことではなく、その他の考慮事項だということになる。そう気がついて、それ以上の質問はやめた。消費税に虐げられている者同士が今争ってもしょうがないのだ。
私たちは消費者として消費税負担を強いられている。介護事業者も事業者でありながら別の回路を伝わって負担を強いられている。介護保険はなまじ社会保険であるために、「善政」で非課税とされ、利用者は形式的な消費税負担は免れる代わりに、仕入れ税額控除ができなくなってしまった介護事業者の、何とか利用者に転嫁しようとする暗闘に巻き込まれてしまう。介護事業者は申し訳程度の介護報酬点数の引き上げでは経営が成り立たなくなってしまう。それは事実で、理解できる。しかし、利用者であり、利用者の家族である私たちにも担「負担」力に限界があるということだ。とくに、年金の中から負担する力は減少している。消費税は年金に対する課税という側面も持っている。この点ではっきりしているのは医療、社会保険診療だ。日本医師会の主張は明白だ。社会保険診療を課税取引にしろ、というものだ。患者さんは窓口で、これまでの医療費に加えて、消費税を支払うように、と。
消費税は底辺に向かって負担を押し下げていく作用がある。社会政策上消費税の負担を求めないと決めたとたんに、上流から下流に向けて水圧が高まる。
消費税法は希代の悪法だ。そんなことはもう250年も前から分かっていた。アダム・スミスは生産物への課税は利潤への課税、したがって資本への課税となるから、資本主義の敵だと考えていた。その理論を精緻化したのは、デイビッド・リカードウだ。リカードウは賃金に対する課税を考察し、それへの課税は賃金を引き上げることになる。したがって、利潤に対する課税と同じ意味を持つ。だから資本主義の敵だと断定した。
それから今年でほぼ200年が経った。その間経済学が身につけたのは、悪知恵だけだった。労働力商品の売買(賃金)に関しては消費税を課さない(不課税)と決めた。そうすると介護保険や医療保険と同じことが起こる。最後の買い手・労働力商品の利用者・資本家は(労働を受け取る時に)消費税を払わない。これおかしいでしょう。私たちがたとえば家の修理を誰かに頼んだ時、請求書には消費税分が乗っかっているでしょう。最後の買い手の一つ前の売り手・労働者は自分たちが負担してきた消費税を転嫁できない。それではやっていけないので、我が介護事業者と同じで、最終消費者(資本家)が負担するように知恵を絞り、あの手この手を繰り出す。介護保険と現実の経済はここから先が違う。最終消費者はその一つ手前の労働力商品の販売者の要求をピシャッと断るのだ。労働者は転嫁できずに、泣く泣く消費税を丸ごと負担する羽目に陥る。あまつさえ、非正規という名で、実質賃金の引き下げまで背負わされている。
リカードウの前提に誤りがあった。賃金に対する課税は賃金を上昇させる。そんなことが起こらないように資本家は鉄の同盟を築いた。リカードウの誤りをフェルディナンド・ラサールが指摘してからだって150年はゆうに経っている。私たちはちょっと油断していた。ラサール、その稿を整理したのはベルンシュタイン。かつて「修正主義者」と呼ばれた人たち。私ももう少し若い頃なら、引用するのを躊躇したろう。しかしラサールの指摘の方が正しかった。こんな大事な時なのに、彼の著『間接税と労働者階級』を岩波文庫は長らく品切のままにしている。どうしたことか。
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