恥ずかしかった。自分の無知を悔やんだ。新聞の見出しになっているその英単語の意味が分からなかったのだ。もっと惨めだったのは、その単語を読めなかったことだ。ちゃんと発音することができなかった。reconciliation。 昨年末、安倍首相はハワイ真珠湾を慰霊のために訪れた。アリゾナ記念館での献花のあと十数分、2千数百字ほどの日本語での演説を行った。その演説の中で、それも演説の最後の方で集中的に6回も使い、英語でもthe power of reconciliationと発音した「和解」「reconciliation」。オバマ大統領も答礼の演説の冒頭で使った語なので、この訪問のハイライト、象徴的な言葉がreconciliationであることは間違いない。日頃から、アメリカではどうの、イギリスではどうのと偉そうに論じていたのだから、そんな単語も知らないとは、知識の足りなさは目も当てられない。謙虚な気持ちで辞書を引いてさらに落ち込んだ。reconciliationという語は、社会人がよく使う10,000語程度の語の内の一つで、当然知っていなければならない語だというのだ。 和解という言葉を使う場面は、法律・裁判、宗教的意味、和解小説(文字通り志賀直哉の『和解』)。安倍首相はどんな効果を狙ったのだろうか。聖書で確かめてみた。名詞のreconciliationが出てくる箇所を検索。「ローマ信徒への手紙」「コリント信徒への手紙」……。なんだ、みんなパウロじゃないか。これはやっかいなことに巻き込まれそうだ。 パウロは結構特殊な考え方をする人で、パウロの和解は、喧嘩をしていた対等な二人の仲直りなのではなく、神との和解、和解を成就したキリスト、それを仲介するパウロとの和解なのだ。パウロにはこうある。 「神はキリストによって我々を神御自身と和解せしめ、我々に和解の務めを与えた。」(第2コリントス5:18、田川建三訳) 和解しなければならない(務めの)衆生は日本側だ。相手のアメリカは神かキリストかパウロだ。随分じゃない。思いっきり謝ってしまっている。 そんなひねくれた解釈をするものではない。普通のアメリカ市民は素直に普通の和解を考える。そうかもしれない。英語圏に暮らした経験のない自分には、普通はそうは考えないという理屈に反論する能力はない。 でもこれはおかしいだろう。演説の真ん中あたりで、アンブローズ・ビアスの詩を引いて「勇者は、勇者を敬う」(ここも英語。アメリカ市民に聞かせたいところなのだろう)と述べている。ビアスは『悪魔の辞典』の著者で、普通は皮肉をかませるときに引用するものだろう。こんなところで英語で引用してしまって危なくないのだろうか。元の詩をすぐに探せる。「E.S.サロモンへ」と題する詩。南北戦争の追悼記念日に南軍の将兵の墓を飾ることに反対したサロモンへの批判の詩。一般的に勇者をたたえる詩なのではなく、北軍よ、それでもおまえは勇者なのかと詰問する詩なのは明らかだ。どちらが北軍なのだろう、どちらが南軍なのだろう。大文字のthe Civil war(南北戦争)とちょうど同じ時代に、日本でも戊辰戦争が闘われた。会津での闘いに勝利した官軍は、会津藩士の遺体の埋葬を許さなかった。靖国神社にも祀られていない。ビアスが日本にいたらそのことを同じ詩で批判しただろう。 穿ちすぎだ。一般的に勇者は勇者を、と考えればいいではないか。しかし、ことは悪魔の辞典の著者だ。名前を挙げてしまったがために、最後の「和解」にもその影響は及ぶ。悪魔の辞典にも「和解」の項目があるのだ。原典では「r」の項目。そう「reconciliation」があるのだ。「戦争行為の一時停止。戦死者の死体を掘り出すための武装休戦。」(西川正身訳) reconciliationはさておいて、日本市民にはどう伝わったのだろうか。首相の「和解」を報じる同じ紙面の片隅に、コンビニの従業員の過労死を巡る裁判で、本社はお金は出すけど責任は認めないという和解が成立したとあった。16年最大の和解は辺野古訴訟を巡る和解だろう。和解は結局国のごり押しを認める露払いの役割しか果たさなかった。 英語が不得意科目であるのははっきりした。半世紀前、高校に入りたての自分に戻って、不得意科目の克服のための一年の計を立てた。毎日1ページ英語の本を読んで、英語の考え方に親しむ。分かりやすい英語、内容に興味の持てるもの。候補はすぐに見つかった。宇沢弘文が晩年に社会的共通資本の考えをまとめた本を英語(翻訳ではなく)で出版しているのだった。言いたいことはだいたい分かるし、日本人の英語だから、そんな持って回った表現などないだろう。 学生時代には、社会的共通資本は、social overhead capitalだったが、少し前からsocial common capitalに変わっている。日本語の方は変わらない。commonか、これはやっかいなことに巻き込まれそうだ。
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