急に涼しくなった8月末、吉祥寺のホテルで「松下圭一先生をおくる会」があった。その際、みなさんの「おくる言葉」やスピーチに耳を傾け、掲げられた先生の写真を拝見しながら、いくつかのことを思い出していた。しかし、断片的に浮かぶそれらについての記憶がおよそ不確かであるために、落ち着かない気分に追いやられることにもなってしまった。たとえば、先生のことを、親交のある方々がお呼びする「お圭さん」ではなく「松圭さん」と呼ぶようになったのは、いつごろからか、どんなことからなのか、それも判然としないのだった。
初対面は中大の助手時代、日本政治学会事務局の引き継ぎで法政大学市ヶ谷キャンパスに出向いたときである。といっても私は学会事務局担当教員の一員でしかなく、後ろに控えて、タバコのピース缶から手を離さない先生のお姿に見入っていたのだが、しばらくして私の分担である会費滞納者の復活手続き等についての質問が投げかけられたりした。
そんなことが一つのきっかけになって、すでに公刊されていた先生の著作や雑誌論文などを片端から読みあさるようになった。コピーするだけでは物足りなかったのか、それらの現物を手に入れようと、神田から高田馬場にかけて古本屋を探し廻った思い出もある。30代に入ったばかりのころの先生の「地域民主主義の課題と展望」に加えて、馴染みのある諸先生の論稿が並んだ『思想』の「自治体と地域民主主義」特集号(1961年5月号)などがその一例である。
だが、私にとっての最高の思い出は、日本行政学会の機関誌『年報行政研究』の書評で先生の『政策型思考と政治』(1991年)を担当したのが機縁となって、じかに一対一で教えを受ける機会を得たことだった。これも、法政大学キャンパスでのこと。手元の記録によると書評が掲載されたのは同著出版の2年後であり、その翌年における行政学会開催会場が法政大学となっているから、おそらくそのときだったのであろう。わざわざ私を探しだしてくださり、書き込みのある書評コピーを開いて、時間をかけて説明してくださった。たしか、「政治」と「行政」と「管理」の論理連関についての記述、すなわち、従前の国家中心主義的な思考方法では「政治→行政→管理」という論理連関で捉えられていたのが、都市型社会になると「管理→行政→政治」に逆転することを論じられたくだりが中心であったと思う。
先生が勤務された法政大学と地方自治総合研究所の立地は、徒歩で10分ほどの近さである。したがって、最寄りの市ヶ谷駅でバッタリお会いするという機会もあった。たまたま双方の住まいが同一方向であったのが幸いして、同じ路線の車中で意見を交わす幸運に恵まれたこともある。このことについては5年ほど前に、「松下圭一法学論集」の冠付きで公刊された『国会内閣制の基礎理論』(2009年)にかんする『季刊行政管理研究』誌の書評で触れたことがある。残念なことに、それに対して先生からはなんのコメントもなかった。先生は大学を退かれていたし、私もまたそのころ山梨学院大学に通勤するようになっていたから、かつてのように市ヶ谷駅あたりでバッタリお会いするという僥倖に恵まれることもなくなっていた。
そして、本年5月の連休明け、沖縄で開催された日本行政学会の会場からそそくさと帰路についたとたんのこと、那覇空港ロビーの一角で「松圭さん」の訃報第一報に接した。まだ教えていただきたいことがあったのに、と身勝手な想いがよぎったのは、「おくる会」でも同じであった。いかにも残念である。
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