地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2015年6月のコラム

東京都制

菅原 敏夫

 自治総研の書架に、2センチ角ほどの朱の「秘」の印がおされた書物が所蔵されている。『東京都制実施に関する記録』東京都長官官房文書課(編)、1943年12月、東京都庁(標題の表記は旧字、仮名は平仮名)である。
 市制町村制からはじまって、三市特例、第一回帝国議会からの大都市制度に関する議論が紹介され、都制度の解説、審議経過が詳細に記録されている。
 この『記録』の独自の貢献は、「引越し」の記録である。府市各庁舎・建物の床面積が調査され、収容人員が割り出されていく。各課・事業が統合され、予算・例規が分類されていく。『記録』の半分以上は事務上の記述で成り立っている。その結果どういう都制ができあがったかというと、吏員以上の職制の割合で府:市の比、3:10、事業職員を含めると1:5、予算で1:4の差に基づく巨大な東京市ができあがってしまった。「府市職員の既得の地位の尊重」、「旧市職員優遇の途が講ぜられ」とある。それにしてもあんな忙しいときに、よくもまあこのような制度遊びにうつつをぬかしていられたものだなあ、と感心する。
 帝国議会で内相が、都制は戦時立法ではあるが、戦後においても帝都行政は本案のごとき体制をもって運営されるべきだと、戦後にまで言及して答弁していることを考えれば、特別市制運動に対して、時局を理由に決着をつけたという側面が強いのかもしれない。割を食ったのが区。巨大な東京市の出現で事務・予算を吸い上げられ、ほとんど行政区に成り下がってしまった。この点でも、東京市・区の争いに時局を理由に決着をつけた。
 『記録』は東京都制実施に関する実態面を教えてくれる便利な書物だ。戦後は、研究にも活用され、主要な資料として取り扱われている。赤木須留喜の『東京都政の研究』にも終りの方に引用が見える。東京都公文書館は資料集成にこの本を収録している。「秘」は自然に解消された。今では誰でも読めるようになって、内容を見てはたと考える。これのどこが「秘」なのだろうか。
 思いつくのはこんなことである。「都政人」以外には「秘」。
 都政人とは、戦後、都と特別区の関係者のことを総称して呼ばれた呼び名だが、戦前の府市関係者に連なる。東京都制は6大市の特別市制推進運動を分裂させて導入した制度だ。東京市側は最後まで抵抗した。その解決策は、足して二で割るどころか足したままで放り出して、効果も定かではない。こんな乱暴な改革を、他の大都市、とりわけ、大阪府と京都府がまねしてはいけないと東京府市双方の当事者が考えた結果だろうと思う。東京市には後ろめたい気持もあったろう。
 皮肉なことに、戦後は本当に秘密にしておきたいことになってしまう。このような形の都制には実質的な理由が乏しかったために、内務省も東京都も「大東亜共栄圏の本拠たらしめる」と第一の理由に挙げてしまっていたのである。そのために東京市を解体し、区の自治権を取り上げたのでは、これじゃあ戦争犯罪になってしまう。それで『記録』はなかったことにされる。現在の東京都公文書館には公文書としての『記録』は所蔵されていない。戦時中公文書は疎開もさせていたのだから、全部が全部焼失したとは考えられない。ないものにさせられたのである。公文書館が資料集成を作るときに底本にしたのは、国立国会図書館に所蔵されていた『記録』である。なんと恥ずかしいことか。
 秘密などというものは、小心者の責任逃れに使われるのがおちだ。
 思いはどうしても、大阪に行ってしまう。5月17日、大阪市での住民投票の結果が明らかになったときには、心底ほっとした。東京都制はなにも解決しなかった。地位を奪われた区が東京市の中での立場まで回復するのには多年を要した。その結果東京市の復活は必要なくなったのだが、東京都は巨大な市役所となって、大きさをもてあまし、かつての東京府、純粋な府県に戻りたがっている。旧三多摩は、すんでのところで武蔵野県になるか、青梅区などになるかの選択を迫られたが、とりあえず、東京都の区域に市町村のままで留まった。しかし「都下」という名称で貶められ続けた。神奈川県や千葉県も含んで東京都にしようという夢はしぼんだ。大東亜共栄圏の拠点にもならなかった。
 あの時、制度改正の結果を検証するべく「秘」の文字を付けない勇気があったのなら、現在の東京都にも益するところがあっただろう。現在の大阪市民の間にも無用な亀裂を作らずにすんだだろう。

 

すがわら としお  公益財団法人地方自治総合研究所非常任研究員)