地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2015年1月のコラム

やはり『知の巨人』 ― 故宇沢弘文

 衆院選挙の結果、政治構造は「1強他弱」、政権運営は官邸主導。内閣・与党内部における政策決定手法も強権的だ。首相は、アベノミクス経済優先路線の推進、集団的自衛権関連安全保障法制の整備に止まらず、憲法改正への環境整備なども公言している。少数のブレーンと首相によって重要政策の方針を決め、必要に応じて各種の諮問機関を活用して「民主性」や「正当性」を「装い」、国会の形式的審議によって「合法性」を確保する。閣議決定により従来の憲法解釈を変更する。「国権の最高機関」である国会の外に「もう一つの政策決定機構」があり、国会の上に内閣が存在するかのようである。安倍政権の進めるアベノミクスは、「まち・ひと・しごと創生」などと美辞麗句を掲げているが、市場原理に基づき効率と競争による利益追求を至上価値とする、これまで保守政権が進めてきた一面的な支配的価値観をさらに押し進めるものでもある。

 このような事態に至ったのは何時頃からのことであろうか。日本の社会を大きく変えることとなった第二臨調後の流れを追跡するために1984年頃設立され約2年間活動した「1980年代研究会」という研究会があった。日本社会は何か見えにくくなっていて、その裏で静かに深刻な病魔が蔓延しているのではないかとの危惧を抱いていたからである。篠原一(政治学)、宇沢弘文(近代経済学)、渡辺保男(行政学)、暉峻淑子(生活経済学)、佐藤英善(行政法)、神原勝(自治体学)がメンバーであった。研究会は、とくに報告書を出すようなことはしなかったが、最後に主要な課題を取り上げ、宇沢弘文・篠原一編著『世紀末の選択 ― ポスト臨調の流れを追う』(1986・2 総合労働研究所)として発刊している。この中で我々は、この時すでに、国会以外の審議会などによって、重要施策全般の決定や、方向付けが行われており、その結果、議会制民主主義は大きく空洞化していると指摘し(拙稿「行政国家の政策決定システムと人権」前掲書228頁以下)、国会の活動方式、国会の構造、国民との関係などについての改革の必要性を説いていた(篠原・前掲書19頁以下)。

 我々は、第二臨調以来価値観の変容が著しいとも感じていた。日本社会の中で支配的価値観となってきたのは、民間活力論などの登場が象徴するように市場原理を優先させ、利益追求を至上価値とし、そのために効率と競争を尊ぶ価値観である。この現象は経済価値が基層価値となって、福祉にも、医療にも、教育にも浸透している。「資本主義社会である以上利益追求が経済分野の支配原理になることは当然であるが、社会の価値が多元的であって、経済における価値と他の分野の諸価値が拮抗して存在しているならば、その社会のあり方は全く異なるものとなる」。「人間としての、品位ある生存と品位ある他者への尊敬が基軸価値となっている社会では、なおさらである」(以上篠原・前掲書32頁以下)。

 研究会を温かい目でリードしてくれた宇沢弘文氏は世界的経済研究者として仰ぎ見るような存在であったが、その研究は庶民の心を支え社会的弱者に寄り添うような感じであった。経済学の分野で「一般均衡理論」や「最適成長理論」などで卓越した成果を上げ(岩井克人「故宇沢弘文先生が目指したもの ― 『冷徹な頭脳』より『暖かい心』」経済教室、日経‘14・9・29)、文化功労者に選ばれ文化勲章も受章しているが、研究キャリアの後半は、冷徹な市場原理に支配・翻弄される経済を批判し、「人間の心」を大事にする経済学の構築に没頭した(岩井克人・前掲、河合敦、日経‘14・12・10)。そして「社会的共通資本」の概念を提唱し、これが充実してこそ人々は人間的で豊かな人生を送ることができる、と確信していた(例えば、宇沢弘文「経済学は人びとを幸福にできるか」2014・11<5刷>、東洋経済新報社)。同様の観点から法律学の分野では「社会的規制」論が登場し、また、同じころ政治学の分野でも一例をあげれば、Mel Gurtovが“Global Politics in the Human Interest”(1991。菊井禮次訳「グローバル・ヒューマニズムの政治学」1992、法律文化社)を公刊して、「人類益」(Human Interest)に立った「人道的経済・社会発展」を目指すべきことを説いている。アベノミクスに欠けているのは、まさにこのような観点であり、その結果、「社会的共通資本」は集積されず、持続可能な地域社会や地域経済の基盤形成は十分には行い得ない。その先にあるのは「アベノミクスの終焉」(服部茂幸著岩波新書の書名。2014・8)かも知れない。

 宇沢弘文氏は、残念なことに昨年9月に故人となられた。ご存命であればアベノミクスや彼も危惧していた我が国の「右傾化」(宇沢・前掲書69頁以下)について、何を語ってくれたであろうか。

 

さとう ひでたけ 早稲田大学名誉教授)