通勤電車の中で読む本から学ぶことも多い。それが、長いこと寝室の一隅に積んであった「つんどく」の中から抜き出した一冊であることもあれば、新たにインターネットで注文して取り寄せた新本であることもある。最近経験をしたのは後者のケースであって、そのような場合は、書店の棚の前で現物を手にしていないから、届いた現物を見て、なんだこんな本だったのか、とがっかりすることもままあるのだが、読み始めてこれはこれはと思ったり、おやおやと驚かされたりすることもある。なかには、読み進んでいくうちに、はてと本を閉じ、しばらく時間をかけて考えをめぐらせるような羽目になることもあったりする。
宇野重規氏の最近著『民主主義のつくり方』(筑摩選書)もその一例である。同氏のトクヴィル研究については、これまでに目を通してきた。しかし、今度の作品は氏のプラグマティズム研究がベースになっているのが特徴であり、氏がプラグマティズムに感化されてきたことを知らなかった私にとっては、これが第一の「これはこれは」であり「おやおや」でもあった。トクヴィル研究とプラグマティズム研究をつなぐもの、それは、急速に人びとの不信がつのってきている民主主義の可能性への関心であり、氏自身の言葉によれば、この数年著してきた『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(2007年)、『〈私〉時代のデモクラシー』(2010年)とともに、「デモクラシー三部作」を構成する3冊目にあたる。
通勤電車に揺られながら読み進んでいくうちに、はてと考えをめぐらせざるをえなかったのが、本書のプラグマティズム理解において強調される「習慣」の重要性についてであった。宇野氏が着目するのは、過去からのしがらみで、いつの間にか身について変えることができなくなる習癖としての習慣ではなく、「未来における行動との関連で意味をもっている」それであり、W.ジェイムズやC.S.パースらが独自の「プラグマティズム的解釈」を加えて提示したという「社会変革の梃子としての習慣」である。それが「実験としての民主主義」において鍵となるとされる。
かつて官僚制におけるセクショナリズムを論じ、異説であることを自覚しつつも、それを役所の世界の病理現象としてよりは生理現象として捉えることの必要性を主張したことがある。数年前にもそのことをふり返りながら、「習慣が重なると、いつしか生まれながらの性質のようになって、それを変えようと努めてみても、たいていは元の黙阿弥になってしまう」人間行動の厄介さについて、ある雑誌の巻頭言に書いたことがある。そんな私にとって、とかく持続性や保守性と結びつけて理解される習慣というものについて、一種の意味転換をはかろうとするプラグマティズム的解釈にかんする論述が大いに気になったのであった。
それだけではない。宇野氏の著作の最後の章(民主主義の種子)では、「社会問題解決のための新たな習慣」としてのソーシャル・ビジネスに加えて、地方自治の事例が登場する。そのひとつが島根県の離島、海士町の実験的な企てである。今年の夏、科研費プロジェクト調査で体調不調をおして海士町に出かけたこともあって、「限界事例であるかもしれない」と断り書きのあるその部分の書きぶりが否応なしに気にかかった。私にとっては文字どおりの思いがけない論及であったが、連結語の「とはいえ」を連発した著者の書きぶりに、一面では共感しながらも、その半面で、はたしてこれが「限界事例」であるのかどうかと、あらためて考え込んだ次第である。 |