2011年11月のコラム
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渡辺京二の作品を読む |
所属大学の移籍にともない電車通勤の時間がふえた。最寄り駅始発の各駅停車を利用すると2時間近くかかる。しかしうれしいのは、その時間を使って本を読めることである。昨年はトクヴィルにかなりこだわったが、今年になってからは渡辺京二氏の作品が多くなっている。70年代末に『北一輝』で毎日出版文化賞を、それから20年を経た90年代の末には『逝きし世の面影』で和辻哲郎文化賞を受賞した。そして昨年、『黒船前夜 ― ロシア・アイヌ・日本の三国志』で3度目の大佛次郎賞を受賞したのがきっかけとなったのか、入手しにくかった同氏の論説が新たに文庫本や新書版で編纂・復刊されたのを幸いに、他の単行本も含めて手当たり次第に読んでいる。 少し前に入手した『地方という鏡』(1980年)の中には、地方自治研究者であればドキッとさせられるであろうこんな言葉がある。「〈地方〉というのは実在なのか、分類なのか、主張なのか、それとも作業仮説なのか」という問いかけがそれである。最近話題の「大阪都構想」との関連であらためて読み返したそれに続く部分を引用させていただこう。氏によれば、「これはおよそ自明の話のようだが、都とは単に都市の巨大なるものでも国で最大の都邑でもなくて、より高い生の価値の唯一の流出源、そのようなものとしての幻影なのだという要めの事実は、数ある地方論において、かならずしも抑えられているようには見えない。」 そうだったか、「大阪都構想」もひとつの「幻影」なのかと、文脈もかまわず、思わず合点したくもなる。しかし、それにしてもなぜ大阪が「都」たりうるのか。引用箇所が後先になるが、氏の考えによれば、「都市といわず農村といわず、国のあらゆる部分を田舎たらしめることこそ、それの都としての基本的機能である。それは価値ある生の流出源であり、そのようなものとして田舎が序列化されてつながれねばならぬ都なのであった。大阪がこのふたつ(東京と京都)と並んで都たりうるのには、江戸期に封建商業の特殊な中心としての役割を担ったことのほかに、それが短期間であれ豊太閤の首府であったという記憶が働いているだろう。」こういう次第である。 ところで、東京や京都がこの国の専制的中心であった時代の各地域における共同団体の伝統的な自治権の実相はどんなものだったろうか。氏の代表作のひとつである『逝きし世の面影』の中に次のような一節がある。「ヨーロッパでは近代的市民的自由は、近代以前の各種の共同団体の保持する自由を胚種として成長し確立したのに対して、日本の前近代的共同団体の伝統的な自治権は明治の革命によって断絶し、その結果、わが国の近代的市民的自由は異邦的観念として、生活の中でなく知識人の頭脳の中で培養された。その意味でも、江戸期の民衆の自由の基盤となった前近代的な共同団体の自治権は、再検討と再評価を求められていると言ってよかろう。」 冒頭に記したように、トクヴィルにこだわったあとに読みなおしたためか、この一節がいやに気にかかった。近世のことに関心を寄せるとそれ以前のことが知りたくなる。そこで論説「山論・水論の界域」などを開いてみる。すると、「中世村落の自由と自律への思いいれは、根本的な倒錯を含んでいる」といった鋭い警句に出会い、またまたドキリとさせられる。こんなぐあいである。 |
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(いまむら つなお 山梨学院大学教授) |
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