その昔、といっても22年前のことであるが、「おしつけ地方行革の背理」と題する時評を月刊誌『世界』に寄せたことがある(1985年7月号)。手元に現物がないので、大学の図書館であらためてコピーをとって読み直してみた。
「『昭和60年は地方行革の年』との大号令の下、3,300近い全国の自治体を、上から外からの地方行革攻勢が席捲している。まるで、下から内からの自治体改革の企てを押し流さんばかりの勢いである。」
これが最初のパラグラフで、最後は次のような一文で結ばれている。
「自発的な自治体改革を支える『地方の活力』を、上から外からの画一的制度化によって押さえ込み、自治省への不信と反撥を助長すること、それが『おしきせ地方行革』の最大の背理である。」
こんな古い拙文を引っ張り出したのは、ひとつのきっかけがあったからである。つい先ごろ、遅まきながら、昨年夏に総務省から出された通知「地方公共団体における行政改革の更なる推進のための指針」を確認したときのこと、普段は読み飛ばす通知の頭書き部分を読んで、気になる表現にぶつかり、はてと頭を傾げることになった。「各地方公共団体におかれましては、この指針を参考として、より一層積極的な行政改革の推進に努められますよう、命により通知いたします」という一節の最後の部分がそれである。
ある政令都市の行政改革推進懇談会で、この表現が問題になったらしい。すなわち、委員の一人がこの表現をとらえ、「『命により通知いたします』とは、いかにも官庁用語で、必ず従わなくてはならない命令のように感じる」と指摘したところ、それに対して事務局は、「命令ではなく、あくまで国の助言と考えている」と応じたようである。
この事務局の応答は間違ってはいない。「命により通知する」とは、通知の発信者である総務事務次官が総務大臣の命を受けて、対外的に総務省の意思を通知した、いわゆる「依命通知」のことにほかならないからである。しかしまた、その表現を「命令のように感じる」とした懇談会委員の反応も十分理解できる。総務省の通知は命令などではなく、通知本文において記されているように、自治法第252条の17の5に基づく助言にすぎないが、それでもなお、それこそ時代がかった行政官庁理論に基づく「命により通知する」などという表現を、今ごろになっても平気で使うほうがおかしいと言わざるをえない。そもそものこととして、行政機関における通知は、本来、上級行政機関が指揮命令権に基づき下級行政機関に対して発するものであって、原則的に「通達行政」を廃止した第1次分権改革の意義を重視する観点からするならば、国が自治体に対して、法定受託事務でもない事務につき、安易に依命通知を発すること自体が時代錯誤的である。
地方行革の更なる推進に関して発せられた上記の依命通知は、はたして単なる助言にとどまるものであろうか。冒頭に引いた20年以上も前のケースとどれほどの違いがあるのだろうか。残念ながら、いずれについても実際上の効果を見るならば、今も昔もほとんど変わらないと言わざるをえない。たかだか、「通達」が「通知」に置き換わった程度の違いである。地方分権改革は、まさしく、日暮れて道遠し、である。