地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2006年5月のコラム

水俣病50年に思う

 

 「水俣は、ベトナム戦争より恐ろしい。ベトナムでは戦場にさえ近づかなければ命の危険に曝されることはないが、水俣では日常生活の中で人々は死の危険に曝されている」。水俣病の恐ろしさ、深刻さをこのような言葉で喝破したのは確か世界的カメラマンのユージン・スミスであったと記憶している。水俣病が公式に確認されたのが
1956年5月1日。今年でそれから実に50年を経たことになる。この間我々一般の市民は、水俣病問題は紆余曲折を経ながらもその大方は解決しつつあると思っていた。しかし、水俣病50年に関連して特集を組んだマスコミは「終わりの見えない苦界」(例えば朝日新聞4月30日付社説)と論じ、小池環境相は「水俣病慰霊の碑」の落成式での犠牲者に向けた祈りの言葉で「長い歴史と経緯を経ても、水俣問題は終わっていない」と述べている。

 水俣病を何がここまで深刻化させたのか。言うまでもなく、その原因はなによりもまず、加害企業の利益追求第一主義にあることは疑いない。企業が利益追求を行うのは当然だとしても、人の生命・健康を簒奪することまでも認められる企業活動が許されるはずがない。水俣病が公式に確認された3年後熊本大学研究班が出した有機水銀説について会社側はそれを認めようとはしなかった。しかし、公式確認の既に5年も前の
51年4月に会社内の技術者の提出した報告書では有機水銀の流失を予見していたことが報道されている(朝日新聞 ‘ 06年4月30日)。この段階で会社が何らかの対応策を講じていれば、これほどの深刻な被害の発生にはいたらなかったと考えられる。また加害企業にとってみても、この段階で何らかの手を打っていればその後の膨大な損害賠償や漁業補償などを強いられることにはならなかったはずである。

 他方、問題はこの間の国や県の対応である。人の健康や生命にかかわる問題であるにもかかわらず原因究明は迅速さに欠け、国が水俣病の原因をチッソの工場から排出された有機水銀と認定したのはこの奇病の公式確認から実に
12年後である。その間被害は拡大の一途をたどった。被害拡大を防ぐために食品衛生法、当時の水質二法あるいは熊本県漁業調整規則など活用しうる法令があったにもかかわらず、法的には厳格な「因果関係論」の主張、産業政策との関連では各種公害規制法に存在した「公害規制と産業活動の健全な発展との調和」(いわゆる「経済との調和」条項)などを背景にして、行政は抜本的な対応を行おうとはしなかった(厳格な因果関係論は、富山のイタイイタイ病、熊本水俣病、新潟水俣病判決などを通じて排斥され蓋然性論などへ発展していく。また、公害規制法に存在した「経済との調和」条項は
‘ 70年のいわゆる「公害国会」において削除された)。この間政府は「疑わしきは救済する」との方針で臨んだ時期もあったが、認定患者が増え続けチッソの支払能力を心配した政府は、認定基準を途中で厳格にするなどしたため、認定患者は2千人余に過ぎなかったといわれる。
‘ 95年の政治決着で約1万人の未認定患者が「解決金」を受け取り一応の決着を見たかの感があった。だが、政治決着であるだけに因果関係など法的責任は曖昧なまま放置された。

 このような国や県の対応に大きな反省を迫ることとなったのは、
2004(平成16)年10月15日の最高裁第二小法廷判決である。熊本大学の研究班や国の機関の研究により、チッソの有機水銀原因説が明らかとなって以降、国や県はその因果関係を高度の蓋然性をもって認識し得る状況にあったのであり、そうであれば先に掲げた各種の法令を駆使して工場の操業停止など何らかの権限行使を行うべきところそれを行わなかった権限の不行使は違法であると行政を厳しく断罪したからである。また、民法724条後段所定の除斥期間について病状が発生した時が起算点となるとするなど認定基準を拡大する判断を示している。この最高裁判決は、今日のような食品や薬品をめぐるリスクにとりまかれて暮らしている社会にあって、行政は国民の健康や生命を守るためにいかなる姿勢でこのような課題に取り組むべきかについて警鐘をならしている、とも解し得よう。


さとう ひでたけ・早稲田大学教授)