2005年8月のコラム
ビアードの『東京市政論』と蝋山政道 |
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日本が独立した 1952年の『都市問題』誌上に、東京都立大学の『人文学報』から転載された蝋山政道の論文、「市政学の新発足 ― ビーアド博士の業績を偲びて ― 」が載っている。「わが国における市政の本格的な学問的研究は、チャールズ・エー・ビーアド博士( Charles A. Beard )の『東京市政論』に始まるといってよい。」これが、その最初の一節である。かつてそれをコピーしながら、「ビーアド」であるのか、「ビアード」であるのか、どちらが正しいのだろうかと、つまらないことで戸惑ったことを思い出す。 ビアードの『東京市政論』( Administration and Politics of Tokyo: Survey and Opinions ,1923)は、その出版年に示されるとおり、関東大震災が起きた年にアメリカで刊行された。創設まもない東京市政調査会の顧問として、彼が後藤新平に招聘されたのはその前年の秋のことであり、約半年間の滞在を終えて帰国し、おそらく本書の刊行に取り組んでいたところへ、大震災が起こった。後藤の電報を受けたビアードは急ぎ来日し、東京の惨状を目の当たりにしたうえで、再建にあたって「誤謬の踏襲」をしないように警告したという。 ビアードが最初に来日してまもなく、東京大学で行われた3日間の講演「大社会とテクノロジー」を聴いて、蝋山は「忘れられない感銘」を受けたようである。それだけでなく、上記の論文によれば、翌年1月下旬に東京市吏員講習所で行われた「市政の諸問題」に関する6回連続の講演についても、「私にとって深い示唆と教訓とを与えてくれたものであって、私は終生忘れることのできない感動を受けたのであった」と記している。 人との出会いが長年にわたって大きな影響をもたらすことは、学問の世界でもある。 最初に挙げた『都市問題』掲載論文が、その数年前に亡くなっていたビアードを偲んでのものであることは副題に示されるとおりである。実は、比較的最近になって確認しえたことであるが、論文掲載の2年前にも、蝋山はビアード宅を訪れている。それは日本行政学会創立から数ヵ月後のことであった。ガリオア援助資金による米国行政教育視察団の団長として渡米し、超過密スケジュールで全米各地の大学や研究機関を回ったとき、その合間をぬってニュー・ミルフォード(コネチカット州)に住むビアード夫人のメリー博士を訪問したのである。そのときの模様を、『婦人公論』所載の「アメリカ通信」で読みながら、私はあらためて、蝋山とビアードの縁の深さを思わざるをえなかった。 『東京市政論』がのちに『東京の行政と政治』として再刊された際にも、蝋山は一文を寄せた。それは、古稀を迎えた蝋山が日本行政学会員に捧げた『行政学研究論文集』の中に収録されている。それから数えてもすでに40年が経つ。わが国における市政学はどこまで発達しえたであろうか。 |
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(いまむら つなお・中央大学教授) |