月刊『自治総研』
2003年3月のコラム
市民の世紀は遠いのか | |
辻山 幸宣
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2003年3月20日、米英連合軍がイラクへ侵攻したニュースを傍らで聞きながら、この戦争の意味を考えていた。そういえば、と思って19日のある記事を取り出してみた。いまの私の気分を説明してくれそうな文章があったはずだ。それは、「揺らぐ世界経済― 『イラク戦』の衝撃①」(3.19朝日)に登場したダニエル・ヤーギン(米ノンフィクション作家)のつぎの言葉だった。「軍事や安全保障の問題が前面に出て、国家から市場へという流れが逆転し、政府の力が強くなりつつある」。
昨年5回にわたって放映されたNHKスペシャル「変革の世紀」の主題は、<政府の時代>から<NPOの時代>への転換であった。とりわけ第5回「社会を変える新たな主役」では、アメリカ・ピッツバーグ・斜陽化した「鉄の街」を市民の手で再建するNPOの巨大プロジェクトを追った。廃墟となった工場跡地に、低所得者向け住宅や文化・教育施設、住民が自然と楽しめる公園を建設するNPOである。総額20億ドル(約2,400億円)に及ぶ資金を独自のルートで集め、各分野のスペシャリストが結集して街を再建する。イギリスではブレア政権のもと1998年11月に、政府とNPO代表との間で「Compact」と名付けた合意が成立している。コンパクトには政府とNPOは公共部門を担う対等なパートナーであることが明記され、NPOは公共サービスの計画づくりの段階から参加することとなった。 「社会を動かす新たな主役として、国家や企業と肩を並べる存在となったNPOを支える」21世紀の「市民たち」は、イラクをめぐる戦争と平和の過程にどのような位置を占めたのだろうか。21世紀は果たして「NPOの時代」と呼ばれるにふさわしい社会を現出しうるのであろうか、それとも国家と国家が角つきあってきた「地政学や神学の世界に逆戻り」(前出・ヤーギン)するのであろうか。 イラク戦争に反対する市民運動は、連鎖的に世界を駆け抜けた。アメリカにおいてさえ各地で反戦のデモが渦巻いた。一方で、開戦日に行われたニューヨーク・タイムズ紙の調査では、「イラク戦争への米国民の支持率は74%」であった。また、ブッシュ大統領のイラク政策への支持率も開戦前の51%から70%に急上昇したという。ロンドンでも「米英のイラク戦争を正しい」とする人が56%にのぼったと伝えている(サンデー・タイムズ)。この、数字が示しているものはなんだろう。たとえば、政府とNPOとのパートナーシップによって公共部門を支えようと合意したイギリスのブレアは、同時にイラク戦争への参戦によって国民の支持を獲得した。 「地球市民」ということばに代表されるように、「市民」という概念は国境を超えるものでありたい、そう思っているのは私ひとりではあるまい。だから、各国の政府がパワーバランスのもとで身動きできない事態にも「市民」団体が対処し、解決する場面が増えてきた。国家間の対立の解消に、まず「市民」間の融和と交流が重視されるのもそうした理由であろう。だが、今回のイラク戦争に対する米英「市民」のことを思うにつけ、「市民」もまたいずれかの国の「国民」であり、それゆえにまたそれぞれの「ナショナリズム」をもっているということを直視しなければならないのかと自問する。姜尚中『ナショナリズム』(岩波書店、2001年)およびその姉妹編ともいうべき姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』(集英社、2002年)が問題にし続けている「国境なき後の世界」は、まぎれもなく「市民」によって構築される世界であるはずだが、そこでの「市民」とは……。香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ、2002年)にみるような、朗らかで屈託のない「市民」が、この世紀を作っていくことだけは確かなようだ。 |
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(つじやま たかのぶ・地方自治総合研究所主任研究員・研究理事) |