地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2010年3月のコラム

過去の調査のフォローアップ

 わが国の自治体形成において特異なケースの一つである秋田県大潟村が、特例法による村の設置から16年後になってようやく制度上の「完全自治体」になるまでの経緯については、2年前に本誌に寄稿した「むらづくりの実験 ― 大潟村の形成と展開 ―」で少し詳しく扱った。

 それ以来、いくつかの点について補充調査をおこなう必要を自覚していたのだが、思わぬ体調異変によってそれを実施することができないまま来てしまった。幸いなことに体調が回復し、所属大学移籍に伴う研究室引っ越しの合間をぬって、2月中旬、冷温警報下の秋田市におもむくことができた。自治総研プロジェクト「まちづくり検証研究会」の実質的な継続をはかり、数人の仲間と取り組んでいる科研費プロジェクトの一環である。

 気になっていた一つは、新村設置にあたって秋田県が果たした役割に関してであった。その問題に限らず当時の秋田県政において、継続して6期をつとめあげた小畑勇二郎知事の果たした役割は大きい。彼を抜きにして八郎潟干拓事業と新農村建設事業も語ることはできないであろう。しかしながら、オランダのヤンセン教授らの来日とそれにつづく有名なヤンセン・レポートの提出以前に、たった1期の任期ではあったが、前任者の池田徳治知事による貢献も見落とせない。干拓事業着工の3年前(1954年1月)、秋田出身の石田博英代議士同席のもとで吉田首相と会見し、干拓の早期着工を要請したのは池田知事その人である。県立図書館に着くなり、最初に地元紙(秋田魁新報)の記事を検索し、そのことを確認しえたときは、これはさい先がよいぞと喜んだのだった。

 だが、それができすぎだったのか。新村設置に4年先がけて(1960年3月)、小畑知事が干拓地全体を一つの行政区画としたい旨の意向を初めて明らかにしたとされる県議会本会議での発言を探し当て、さらに新村設置の直前、中央干拓地の新村名称とその境界等に関する議案審議を議事録で確認しようとした段階でつまづいてしまった。2泊3日の旅程の2日目午前のことである。

 まずは、その刊行完了を待っていた県議会史(全5巻)の点検から始めたのだが、前者の案件についての記述はどこにも見当たらない。そこで本会議議事録の閲覧を求め、定例会での一般質問に対する知事答弁に当たってみることとする。覚悟を決めて取りかかったが、これも運よく、比較的簡単にそれを見つけることができた。うれしくなって引きつづき後者の案件に取りかかったところ、こちらの案件に関する議会史の記述はあるのだが、実際の議案審議の模様を確かめようとしたとたんに暗礁に乗り上げてしまった。なんと、その案件審議のために招集されたはずの同年夏(1964年8月)の臨時会議事録がすっぽり抜け落ちているというのだ。公文書館も同様である。職員の厚意に甘えて、徒歩で10分くらいかかる県議会事務局に問い合わせてもらったところ、定例会開会日のため直ちには対応できない由。こういうこともあるのかと愕然としてしまう。

? 気落ちして遅い昼食をとってからは、あらかじめ見当をつけておいた一通りの文献コピーをそそくさとすませ、早めに切り上げてホテルに戻ることにした。所期の目的を一部しか果たすことができなかったことが尾を引いて、疲労感が強まっていた。滞在を延ばすこともできないし、他日を期そうにも、それがいつのことになるのか覚束ない。

 
しかし、翌日のこと。帰路の列車に乗り込んでしばらくして、仲間と取り組んだ3年前の大潟調査を思い起こし、それからの2年半をふり返りながら、「これでいいのだ」と合点をした。欲を出せばきりがない。体調回復はもとより、フォローアップ調査に着手できたこと、私にとってはそれが何よりの大きな幸運だったのである。

いまむら つなお 中央大学教授)