2011年5月のコラム
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「絶対的安全」は最早「神話」 |
百万言を費やしても、3・11大震災に被災したみなさんの悲しみや苦しみを表現することはできない、と思う。被災者のみなさんは、いかに「自助」が基本であるとはいえ、未曾有の大震災であった上に、「国策として進められてきた原発」の事故による放射性物質の恐怖が追い討ちをかけていることもあって、国は被災者の生活再建や被災地の復興のためにいかに英知を絞りいかなる復興策を講じてくれるのか、国民は物心両面と行動によっていかに支え続けてくれるのか、との思いで一杯だと思う。まさに国や自治体の存在意義と政府の力量が問われ、われわれ日本人の真価が試されていると思う。 被災者のこの思いに応えるには、なによりもまず、被災者の救済や被災地の復旧・復興策の迅速な策定と具体化である。時間との戦いだ。このような時にこそ政治が真価を発揮すべきだ。未曾有の震災からの復旧・復興を急ぐには、これまでの政党の枠組みを超えた取組をするなど、政治そのものが非常時体制を組むのは当然ではないか。だが、震災・原発事故の復旧・復興策をめぐって与党内においてさえ足並みが乱れ、与野党間では政治的駆け引きの具とさえなっている。復旧・復興を「一刻も早く」との被災者の願いは、そして「国を挙げて」との国民の思いも、政治には完全には届いていない。 被災地の市町村の多くは行政の拠点である庁舎を失い、なかにはリーダーである首長を失った町さえあった。自治体の機能そのものが根底から破壊されることなど誰が想像できたであろうか。まさに前例なき事態なのである。このような状況の中で助かった住民のみなさんが町村ごとにあるいは地区ごとによりそって避難所で暮らす姿、家も仕事も失い家族さえも失いながらも破壊し尽くされた被災地に佇み、わが町の復興にそれでもなお希望を失わないその強靭さはどこから生まれてくるのか。共に暮らしてきた肉親や隣人との人間的絆、営々と築いてきた生活の舞台、そのふるさとを愛する心こそ地域を支える自治の根源なのかもしれない。 初動や対応に問題があったとの批判があるにせよ、被災者の救助活動や原発事故への政府・自治体の関係組織、警察、消防、自衛隊、米軍などの対応は献身的であった。同時に周辺自治体間や全国的規模での自治体の被災地域自治体への迅速な支援活動は今後の自治体の広域連携のあり方について示唆する点が多い。そしてなによりも個人や民間企業などを含めた各種のボランティアによる支援活動は被災者たちをおおいに勇気付けている。あらたな「共助」のあり方やその到達度を示すものとして多くのことを学ぶこととなった。 それにしても政府の復旧・復興策の具体化は遅すぎる。その検討を行う復興構想会議のスケジュールも悠長にすぎる。被災地を復旧・復興していくには、一日も早く瓦礫を除去し、人の暮らす住宅、病院、学校などは安全な高台に移し、海辺や平野部においては漁業、農業あるいは商工業などを中心にした産業地域にするなど従来にない新たな構想の地域づくりが必要となる。それも被災地域住民の意向を十分尊重しながらである。 宮城県が被災した沿岸14市町に提案したと報道された街づくり復興案(讀賣4・25夕刊)は十分検討に値する。被災地の地形や市街地の状況に合わせて、「平野型」、「リアス式海岸型」、「都市型」の三類型を想定し、堤防の役割を果たす盛り土した道路や高層の避難ビルが設けられる。漁港や工場、水田の配置された海岸部と住宅部とを景観を損なわないよう道路や防災公園で分けるなどの工夫が凝らされている。いわば被災地域を一体的に作り変えていく構想であろう。しかし、仮にこの構想を実現するとした場合、都市計画法、農地法、森林法、都市公園法等々により十重二十重に規制されている既存の土地利用関連の規制(日経・社説4・25)との関係を早急に検討し特例的措置を講じる必要がある。だが、いかなる復興計画を描くかによって整備すべき法制度は当然異なってくる。政府および復興構想会議が、復興の基本構想をいかに迅速に纏め提言するかが決定的だ。 また、今回のような震災は、今後いつ日本のどこで起こってもおかしくない。さらに原発事故の恐怖も加わって、今後起こるかもしれない震災への対応は一層複雑・深刻だ。国や自治体は既存の体制とルールによって十分対応できるとは考えられない。まず、思い切った発想の転換が必要だ。自然災害であれ、原発事故であれ、その備えが「絶対安全」との考え方は、われわれは最早採用し得ない。仏原子力安全委員会副委員長ラショム氏は原発事故について「事故は必ず起きるという考え方こそが危機管理」(讀賣5・2)と述べているとされ、讀賣は「それは原発に限らない」(同)と報じているが、その通りであると思う。地震、津波、原発など災害や事故の危険が想定できる分野において、従来の「安全神話」をすべて総点検しておく必要がある。「絶対安全」との考え方は、「経済的合理性」との折り合いや専門家相互の「力学」から作り出された「神話」であることが多いからである。 |
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(さとう ひでたけ 早稲田大学名誉教授) |
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