12月7日(月)、東京・アルカディア市ヶ谷にて篠原一先生お別れの会が催されました。ご案内をいただき参加させていただきました。会場は200人を超える参加者であふれていました。先生の遺影が飾られた正面の祭壇に献花をして席に着くと「篠原先生の生涯と業績」(平島健司)、「篠原先生を導きの手として」(三谷太一郎)などのお別れの言葉が続いたのちに黙祷そして献杯。たくさんの方々と懇談させていただきました。一言スピーチでは、かつて自治総研の研究員でもあった神原勝氏が練馬の市民運動の思い出などを語りました。それにしても偉大な方を失ったものです。
考えてみれば最近、昭和の巨星ともいえる大学者が次々にご逝去なさり、ぽっかりと穴が空いた気がするのは私だけでしょうか。昨年9月18日には、経済学の宇沢弘文先生が亡くなられ、今年10月4日に生地米子市で開かれた「宇沢弘文記念フォーラム」には研究所からも4名が参加しました。宇沢先生は自治総研草創期の1987年6月に開催した「いま環境になにが問われているか ― 地方の時代と環境問題」というシンポジウムに都留重人、小林直樹、柴田徳衛氏らとともにご登壇いただき、「経済成長と環境」を講じていただきました。このシンポジウムの報告書は自治総研ブックレットの記念すべき第1号として保存されています。
また、本年5月6日には松下圭一先生がご逝去なさり、私たちを驚愕させました。その年の2月に行われた自治総研40周年記念祝賀会に記念講演を松下先生にお願いしたところ、「体調すぐれず他の方にお願いして」といわれたばかりだったからです。そのときのお言葉はいまもはっきり、あの野太い声とともに耳に残っています。あまりにも急でした。8月29日に武蔵野市内で執り行われた「松下圭一先生を送る会」に出席して、つくづく大きな存在を失ったことを痛感させられました。
そして今回、篠原一先生の訃報に接することになりました。10月31日に老衰で亡くなったとのこと。90歳でした。篠原先生とは自治総研を通じたり、個人的な関係で長らくご指導を受けました。ヨーロッパの政治史をはじめ幅広い研究と膨大な著作で知られる方だけあって、残された講演録などには貴重な知見がちりばめられていることを改めて思い知らされます。
ご承知の方も多いと思いますが、先生は、1971年に日高六郎、横山圭次、上田篤、栗山益夫、飛鳥田一雄の各氏らとともに雑誌「市民」の創刊に参加されました。「運動の時代」といわれるこの時期のうねりをリードしたのは「市民」という概念と雑誌そのものだったのでした。
この雑誌「市民」は1974年に一旦休止するのですが、篠原先生はこのことと自治総研の関係について自治総研30周年の記念講演で次のようにおっしゃっています。「自治総研が発足したのは1974年だということですから、ちょうど第1次『市民』がダウンした後にできているのです。だから……これは自治総研の前身なのではないかと思っているわけです」、我が自治総研の歴史的な位置をそう洞察されたのでした(「戦後の地方政治と市民自治」、「自治総研」2005年4月号)。
私の記憶の中で、最も近間でご一緒したのが「地方自治基本法」研究会でした。地方分権改革の議論が進んでいる1998年に自治労と自治総研で始めたこの研究会は、代表が篠原先生で、委員は今村都南雄、兼子仁、佐藤英善の各氏でした。私は委員会の下に設けられたワーキンググループの主査を仰せつかりました。非常に密度の濃い議論を経て、原案を作成し、それを掲げて自治総研セミナー「分権型社会の基本設計」を2日間にわたって開催しました。その基調講演「分権型社会の基本設計」で篠原先生は「中央と地方が権限を取り合うというような、あまり小さい範囲で見ていくと、時代がわからなくなっていきます。……私たちの市民社会の中から政府をつくり出していくということが基本的な発想」であることを述べられ、地方自治基本法の歴史的意義についても触れられました(自治総研ブックレット62「分権型社会の基本設計」1998年)。
じつに多くのご教示とご指導をありがとうございました。自治総研は先生方のお教えに沿って精進していく所存です。
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