地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2016年8月のコラム

政党政治、政策、60年安保 ― 岸信介語録から

 日本の保守政治の現状を基準とすれば、岸信介が思いのほかリベラルな政治家に見えてくると本年2月号巻頭言で述べた。その続きの話しを前回同様、岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』(文春学藝ライブラリー版、2014年。以下『回想』)と、原彬久編『岸信介証言録』(中公文庫版、2014年。以下『証言録』)から材料を得てまとめたい。
 まず岸の政党政治観である。議会制民主主義のためには2大政党制がどうしても必要だ。一強多弱で民主的な政権交代ができない状況は、議会政治にとって望ましくない。だから選挙制度を小選挙区制にあらためるべきである。さらに、保守政党の一番左の考えは革新政党の一番右の考えよりも左に位置するぐらいがちょうどいい。岸はこう指摘する(『証言録』85、214頁)。
 つぎに政策に関して、社会主義的な政策も取り入れることが重要で、戦後の保守政党はそれを実現していると思うと述べる(『証言録』89頁)。岸が自他共に認める反共主義者であると同時に、戦前いわゆる「革新官僚」であったことはよく知られているとおりである。岸政権時代に社会保障や地域開発の関連法がいくつも制定されていること、池田勇人内閣が閣議決定した「国民所得倍増計画」も岸政権下で行った経済審議会への諮問がもとになっていることを思い起こしたい。
 ちなみに岸は公職追放解除後、社会党に入党して同党から衆議院議員選挙に立候補しようと目論んだことがある。そこには政治家・三輪寿壮との個人的なつながりだけでなく、2大政党間の距離や実現すべき政策に関する岸自身の考え方も、行動を促す要因として働いていたように思える(『回想』121頁、『証言録』89~91頁)。
 岸が首相在任中、最大の精力を注いだ安保改定をめぐって、一番苦労したのは自民党内で足元を固めるための調整で、そのつぎが日米交渉だった。他方、野党はどうせ改定に反対するので国会対策はあまり意に介さなかったし、国会周辺のデモも極左に煽動された一部グループがやっているにすぎないから大したことはなかったとする(『証言録』400~401頁)。この後段の回顧は、岸がかつて安保反対デモのうねりを前に「わたしは『声なき声』に耳を傾けたい」「多くの国民は後楽園で野球を見たり、銀座をそぞろ歩いている」と語ったのと同じ脈に属する見方を示している(『回想』290頁、『証言録』328~329、424~425頁。「声なき声」発言は1960年5月28日付各紙夕刊記事で確認できる)。
 岸の見方をフィルムのポジ面とするなら、それをネガ面から透かして「デモ隊がどれほど国会周辺を席捲しようと居住地域は通り過ぎている」「居住地域をいまなお支配している保守政治の改革こそ急務の課題だ」と考えた市民派の政治学者がいた。松下圭一や高畠通敏らである(『都政』1960年10月号、「声なき声のたより」第2号〔1960年8月1日〕所収の論稿を参照)。その後、松下が自治体改革、職員参加の制度・政策論へと議論を進めるのに対して、高畠は市民運動・市民参加の政治学を語り続けた。そうした違いが生じたことの意味も含めて、彼らのたどった軌跡を別の機会に検証してみたい。
 岸語録にもう一度戻ると、岸はあとから考えても安保改定は間違いでなかったと思うが、たった一つだけ後悔していることがあると漏らす。それは、新安保条約の調印直後に解散・総選挙をして国民の意思を聞いておくべきだったのに、自民党内の強い反対に遭って実現できなかったことである(『回想』296頁、『証言録』302~304、391~392頁)。昨年、安保関連法を通過させ、さらにこれから憲法改正を目指すと公言する現政権中枢の政治家たちは、岸のこの筋の通った悔悟の念を聞いたとき、どう弁じるだろうか。

 

こはら たかはる 早稲田大学政治経済学術院教授)