6月の「沖縄辺野古シンポジウム」から3ヵ月。形式的には、石井国土交通大臣が翁長沖縄県知事を相手に起こした違法確認訴訟にかんする判決が、9月半ばあたりにあるという。「形式的には」というのは、行政法を専攻する大学の研究者であればいざ知らず、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画をめぐる争いで、どうして国土交通省の「主任の大臣」が訴訟の当事者になるのか、そのこと一事をもっても、合点がいかない人びとが圧倒的に多いだろうと思うからである。
ことほどさように、普天間飛行場の辺野古移設問題をめぐる一連の訴訟には訳の分からないことが沢山ある。その問題にかんする自治総研の研究会に参加し、その場でしばしば交わされる法律解釈や具体的事案にかんする裁判の争点についてのやりとりを聞きながら、何やら頭の中がこんがらかってくる経験を何度もしてきた。そのたびに、帰路の電車の中などで、愛読書のひとつであるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫、松本礼二訳)の中の一節、法曹精神が「民主政治に対する均衡の重し」としてどのように役立つかについて論じたくだりを思い出したりして、疲労感をさらに強める結果になったりすることになる。ほかならぬ、その一節が、やや堅苦しい表現で、「楕円的構図」による把握と私が呼ぶものの典型的な一例である。
トクヴィルによれば、「法律家は利益と生まれで人民に、習性と趣味では貴族に属する。……二つをつなぐ環(わ)のごときもの」であって、法律家に見られる「法律家精神と民主的精神とのこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わない」という。詳しくは上記の著作に譲らざるをえないのだが、法曹人や法律家に「民主政治に対する均衡の重し」としての役割を彼が期待するのもこのゆえである。だが、周知の「人民主権の教義」にかんする鮮やかな彼の論述との対比において、なんとも理解にてまどる部分であった。しかしながら、やがてその部分が最も魅力的な部分に変わっていった。それというのも、フランス貴族階級出身の彼が、自分の母国における集権的統治とはまったく異なる「新世界」をアメリカ合衆国に発見しながらも、その国の民主主義を論ずるにあたって、「多数者の専制」を生み出しかねない「民主政に固有の弊害」を見落とすことなく、その弊害を是正する要素としてヨーロッパ社会に伝統的な「貴族的要素」の形成と保持に期待を寄せたことに関心を集中させるようになったからである。
ところで、沖縄の自治をめぐる国と沖縄県との一連の訴訟は、いったいどのように整理したらよいのであろうか。この問題をめぐってはこれからもなお、ややこしい法律論議をしなければならないに相違ない。願わくはその合間に、「楕円的構図」における一方の焦点を、たとえば翁長沖縄県知事がくり返し主張されてきた憲法上の「地方自治の本旨」に置くことで足りるのかどうか、もっと端的に「法治主義」を設定することが妥当なのか、また、それに対峙するもう一方の、訳の分からない国側の出方につらなる動きについては、はたしてどのように焦点化し概念化したらよいのか、そのことにかんしてどうか真剣に考えをめぐらせてみてほしい。
昨年から今年にかけて、4回にわたり『自治総研』誌上に掲載した拙稿において、約半世紀に及ぶ自らの研究生活でおそらく最後になるであろう、「楕円的構図」による把握の試みをしてみた。だがしかし、私なりの思いを込めた作業であったにもかかわらず、「楕円的構図」を構成する二つの焦点の設定方法に難があり、肝心な二つの焦点間の緊張関係なり均衡関係なりを直截に描き出すことができなかった。本誌に寄せる最後のコラムの誌面を借りて、舌足らずではあるが、心底からのお願いをさせていただいた次第である。
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