自発的な税は「寄付」であり、強制的な寄付は「税」である。
このフレーズを思いついたときには、ニンマリとした。寄付と税は表裏のもの、同等のものだと考えればよいのだ。寄付と税は市場取引では決まらない。資本主義の鬼子のようなものだが、これなしには市民社会は成り立たない。
アダムがこの世を受け継いだ頃、税はまだなかった。交換もなかっただろう。ただ寄付と贈与だけがあった。寄付は税に先行する。新約の世界になっても、「求めよ、さらば與へられん」なのだ。
非市場的取引。研究はそういう方向に向かうだろうと思っていたが、そうはならなかった。寄付研究に熱心な人々が、「寄付市場」という言葉を頻発するようになった。募金という言葉は死語になり、fundraising(資金調達だろう)と言い換えられるようになった。募金箱を持って待っているというのではなしに、積極的に寄付を狩りに行くという語感になった。
寄付が市場の虜になってしまったとしても、寄付が市民社会を市民社会たらしめる重要な要因であることを疑ったことはない。ずーっと昔、アメリカの非営利セクターの活動家が、自分の使命とする活動と同じように、ファンドレイジングの戦略について熱心に語る姿に圧倒された。ファンドレイジング専業のNPOも多かった。ファンドレイジングは産業をなしている。それも巨大な。
寄付は重要だ。ファンドレイジングも重要だ。私はそう主張してきた。NPOのファンドレイザー向けワークショップなんかも開催している。そこで強調するのは志だ。参加者に100字以内で自分たちのプロジェクトの意義を語ってもらう。エレベータでいっしょになった(できれば重要)人物に、即座に自分たちの意義を伝えるために普段から準備しておくことの一環だ。
日本ファンドレイジング協会は『寄付白書』という出版物を出している。GIVING USA、UK GIVINGの向こうを張った日本の信頼の置ける刊行物だ。それを読むと、災害の起こるたびに寄付の重要さが思い起こされ、男性より女性の方が寄付に熱心で(ただし額は男性の方が多い)、若者より60代以上が格段に多く寄付をしていて、会費もよく払っている、ということが分かる。協会は2020年年間寄付市場10兆円を掲げるが、足下は7,000億円強なので、相当に野心的な目標だ。寄付熱心で有名なアメリカは30兆円だから今のところ比べものにもならない。
いまや寄付市場の主役は自治体だ。2008年に始まった「ふるさと納税」は順調に伸びている。ふるさと納税は純粋に「寄付」なのだが「納税」と表現され、寄付と税の同一性という1行目のテーゼを裏付けている(!)。ふるさと納税は寄付市場の拡大に寄与しているだけではなく、寄付税制の整備にも貢献している。ワンストップ特例制度(給与所得者に限り控除のための確定申告を必要としない制度)はふるさと納税だけの措置である。制度拡充の橋頭堡だ。1987年までは住民税の寄附金控除は各都道府県の共同募金会だけが対象、それも適用下限額が10万円という、寄付なんかするなといわんばかりの制度だった。いま下限額2,000円、対象も条例で指定できるまでになった。地方分権といわずしてなんといおう。もう一つ。すべての寄付の中で、きっかけで一番多いのは「自治会・町内会が集めに来たから」というのである。「関心があったから」よりも倍以上も多い。ここでも自治が主役。
しかしそれにしてもふるさと納税の評判は悪い。とくに専門家、識者の間ではさんざんだ。豪華返礼品が問題となっているようだ。税金の控除方式は民主党政権下で拡充された公益税制を踏襲しているので、不釣り合いはない。控除税制を受けられる特定公益増進法人等(加計学園もそうだ)の寄付金の使い途を詮索しなければならないのだったら、事業内容や寄付の集め方に立ち入らないという制度設計はもたない。
それと寄付者の意図を疑うのはやめよう。お肉が欲しいのか、ふるさとを応援したいのか、いま住まいの自治体に住民税を払うのが腹立たしいのか、天国へ行きたいのか、寄付をしたということを人に示したいのか、は誰にも分からないし、本人も入り交じっている。ただ、寄付市場からすれば、原価率の高いお店は潰れる。実入りが少ないのだったら、やっている意味がなくなる。
寄付とはそういうものだ。
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