ほぼ同じ世代に属する戦後派政治学者の松下圭一と高畠通敏は、60年安保反対闘争の経験をきっかけとして、地域民主主義に重大な関心を注ぐようになった。当時「地域」民主主義とは、「職域」民主主義との対比で使われた言葉である。しかし同じ関心に発しながら、2人はその後、異なる道を歩んだ。つまり、松下が市民参加とそれによる都市政策の実現、さらに政策実現への近道を求めて職員参加の重視へと向かい、テクノクラシーへの傾斜を強めていくのに対して、高畠は市民参加を主張するものの、市民運動がすべて「参加」に回収されることに対しては違和感を唱え、運動としてのデモクラシーを擁護し続けた。高畠のそうした姿勢は、彼が市民運動家としての顔も持ち、60年安保反対闘争の渦中で生まれた声なき声の会の事務局長を以後20年間つとめたことや、65年に声なき声の会の活動の延長線上でベ平連の創設者の1人になったことにもあらわれている。
高畠がとりわけ市民運動家の立場からもっとも敬していたのは久野収だろう。「日本市民運動の思想」ではとくに久野の名を挙げ、「新しい組織原理としての市民運動にもっとも明確な照明をあたえたのは、久野収の『政治的市民の成立』(〔中略〕発表時のタイトルは『市民主義の成立』)だろう」としている(『自由とポリティーク』筑摩書房、1976年、111頁)。久野は同論文でいう。「市民は職域における職業人の足と、地域における生活者の足、この両足でたち、うごき、生きている」。安保反対運動で一番弱いのは市民の後者の側面からの声だったのではないか。また、職域・地域・街頭のトリアーデを提示し、「政治的保守派は地域をおさえ、政治的進歩派は街頭をおさえ、職域は両方がとりあう。保守派とは、市民を職域と地域に安住させ、街頭にでて抗議することをまえもって防止する政策をとるグループということだ」とする。そして議論をこうまとめる。職域や街頭などの活動に「地域における主権者組織がくわわった時、さらにこれらの拠点が相互にエネルギーを補完しあう時、われわれはいかなる反民主勢力とも対決しうる力を持つことになる」(『市民主義の立場から』平凡社、1991年、153、154、158~159頁)。
高畠の著作のなかでもっとも強く印象に残り、読後も折りに触れて思い返すことが多いのは「運動の政治学・ノート」である。高畠はまず日本語の「運動」にはムーブメントとスポーツという相異なる2つの語義があり、それは西欧文化のなかで2つの語義を2つの言葉にはっきり振り分けて使う語法と異なるという話から始める。その際、ムーブメントは外的な変化を生む客観的で力学的な<動き>であり、スポーツは個人による主体的なからだの<動かし>だと説明される。ついで運動と参加と権力の関係を論じ、プランジャー『現代政治における権力と参加』(勁草書房、1972年)に少なからず共感を示しつつ、読んでいて「何かぎくしゃくした感じ」がつきまとったとする。その要因は「主体としての市民の政治行為を『参加』という概念でまとめた」ことにある。市民運動は政治参加のカテゴリーに属する行為かと問われれば、自分の運動仲間の多くは直感的に違うと答えるだろう。西欧型民主主義の伝統のもとでなら権力と参加、権力と運動は相補的に両立しうるが、日本の現実でそれは容易でない。むしろ「運動が参加の運動としてよりも、抵抗の運動、拒否の運動として一般的に出現してくる」といっていいのではないか。
最後に高畠はもとの論点にもどり、久野と親しかった中井正一の議論も借りて「運動をスポーツとしての運動への拡がりにおいて」考えようとする。スポーツで勝敗という外的な効果だけにこだわると、スポーツのもつ実践主体への実存的効果が損なわれる場合がある。政治運動についても似たことがいえる。政治運動の成否がその勝ち敗けだけで決まるとしたら、これまでの「運動は基本的にいつも目的を達成しないで敗けつづけているのだから、意味がない」ことになる。しかし、勝敗に加えて重要なのは「運動が参加者の間に充実した存在感覚をあたえたか、それとも空しい疲労感だけを残したか」ではないか。さらに高畠はスポーツと運動が今日「生の具体的感覚を確かめる唯一の場所」だとさえ述べている(『自由とポリティーク』3~20頁の各所)。
このように「運動の政治学・ノート」は、高畠のたどった足どりとその理由を十分集約して示しているように思える。『高畠通敏集』全5巻(岩波書店、2009年)に収録されなかったのはなにか編集上の理由があったからに違いなかろうが、少し残念な気がする。
|