地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2019年3月のコラム

三度目は


菅原 敏夫

 何気ない車窓の風景が強く印象に残って後の議論の予兆となる、昨年、ちょっと不思議な経験をした。北陸本線を東上した時だ。金沢直行でもない限り、北陸新幹線は敬遠したい。動体視力がだいぶ低下したので、景色を見るには新幹線は速すぎる。通過する駅名などはもうまったく読めない。それに揺れすぎる。コンピュータの画面は気分を悪くする。本も危ない。ひかりで米原経由北陸本線というのがお気に入りだ。その日気がついたのだが、広い琵琶湖畔の風景から、福井県に入ると急に杉林が線路に迫ってくる。線路の周りは疎林、遠くの山の斜面に植林された杉林、というのが普通だと何となく思い込んでいたために、きっと何度か通った景色でもあるのにかかわらず、他人の家の縁側を通っているような違和感を感じた。少しでも森林のことを知っていたら、現在の森林の置かれている状況などが鮮やかに点滅しただろうが、無知のなせる技、どうして今日はこんな感覚になるのだろうとしか考えなかった。
 降りて車に乗ったら、違和感はさらに強まった。道路のガードレールにすり寄らんばかりに杉の成木の密集しすぎるくらいの林が迫っている。ここではガードレールは人と車を隔てているのではなく、杉と車を隔てている。運び出すのに条件が良さそうなところでも成長し放題なのは、きっと市場価格と折りあわないからなのだろう。素人考えはその程度なのだが、話を聞いてさらに驚いた。今一番問題になっているのは、盗伐だというのだ。車窓から見えるような表面的問題ではなく。
 「森林盗伐」が話題の主題に上ってきたのは、私のなかでは(たぶん)じつに半世紀ぶりだろう。半世紀前、その頃はやりの初期マルクス論の主題が森林盗伐だった。1840年代初め、マルクスはライン新聞で健筆をふるう。その頃のライン州の刑事訴追のかなりの部分は、森林から燃料材を調達する農民を盗伐の罪で訴追し追放しようとするものだったらしい。青年マルクスは農民の入会権、協同組合などに関心があり、資本主義原理論より豊富なアイディアを持っていた、というコンテキストで使われていた。青年菅原もそっち派だったから、それで納得していた。半世紀を経て、岩波文庫の世界が眼前の日本で起ころうとは。今度は入会権ではなく、たぶん本当の犯罪、所有権の侵害として起ころうとは。
 コラムにこの稿を書こうと思った時には、そこから知っているふりをして、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とでも書いて終わろうかと思ったが現実の方がよりシビアだった。現代の森林盗伐の被害は深刻で、とても笑えない。日本の森林のあり方すべての矛盾が集約的に現れていて、劇を眺めているだけではすみそうにない。警察・検察もほとんど訴追できていない。管理の行き届かない森林、所有者が不明の森林では、盗伐が起こっているかどうかさえ分からない。昨年今年の森林経営管理法や森林環境税、森林環境譲与税などは、笑劇に類するのだが、笑っているうちに背筋が寒くなるほどのお粗末ぶりだ。
 もう一つ三度目の悲劇も用意されている。
 今年の2月15日「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案」が閣議決定され国会に上程された。その第10条第4項には、「アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野において採取する事業に関する事項を(地域計画に)記載することができる。」とだけある。先住民の権利は権利としてではなく、いわば恩恵として、裁量によって与えられる恩恵として記述されている。「アイヌの人々の誇りが尊重される社会」はこれではやってこない。法案の骨子の報道と同時に、アイヌ民族に対するヘイトスピーチがネット上で渦巻いた。与党国会議員のなかでさえ、ヘイトに荷担するものがいる。法案が悲劇であるだけでなく、私たちの市民社会の一部の劣化は相当な悲劇だ。

 

すがわら としお 公益財団法人地方自治総合研究所委嘱研究員)