地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』

2010年8月自治動向


分断社会の統合に向けて
~南アフリカ・真実和解委員会と「対話」の力~
上林陽治

 

 芝と一緒に蹴り上げられたボールが、ゴールに向かって無回転で突き進む。

 サッカー・ワールドカップが開催された南アフリカのヨハネスブルグ近郊の元黒人居住区ソウェト。そこに創られた巨大サッカースタジアムでの2010年6月の一シーン。それを見ている私の意識は、20年数年前の南アフリカにあった。

戒厳令下のストリートコミッティー

 濛々(もうもう)とした土煙りの中を、数万人の男たちが、重低音のうなり声を繰り返し発してリズムを刻み、赤色の乾いた大地を怒りで踏みつけながら、小走りに進んでいく。彼らの肩には、前の週に治安警察によって殺害された若者たちの棺が乗っていた。

 当時、南アフリカ全土に戒厳令が敷かれ、集会やデモは禁止されていた。棺を担いでの行進はアパルトヘイト政権に抗議するデモ行進であり、墓地でのセレモニーでは反アパルトヘイト運動の指導者たちが次々に演説し、決起集会の様相を呈していた。

 南アフリカで「黒人」とは、肌の色のことではなく、抑圧される者たちという意味に解される。だから、戒厳令下の南アフリカで日曜日ごとに行われた「葬列デモ」と「葬儀集会」に参加していたのは、アパルトヘイト=人種隔離政策のもとで自由を奪われる側にあったすべての有色人種である「黒人」と、リベラルな白人たちということになる。そしてこのデモや集会を組織していたのが、ストリートコミッティーと呼ばれた「黒人」たちの自治組織だった。

  剥き出しの暴力が吹き荒れていた20年前の戒厳令下の黒人居住区ソウェト。私が訪れ、宿泊していた家の狭い一室に、夜、様々な職業をもつ男女10数人が集まっていた。彼らは一定の居住ブロックを代表する者たちで、自分たちの地域が抱える問題や直近に起こった事件の背景を語りあい、ネルソン・マンデラら獄中の指導者が秘密裏に発してきたメッセージが伝えられ、そして何をなすべきかを話し合っていた。

 私の世話を焼いてくれた20代前半の若いフリーダム・ファイター(自由の戦士)は、「すべてのことを私たちは自らできる」と語っていた。実際、当時のソウェトでは、警察や軍隊を含めてアパルトヘイト政権に連なる行政組織は機能停止に陥っており、解放区に近い状態だった。そして多くのことがストリートコミッティーで決せられていた。

 しかし、権力の空白期はカオスである。私が帰国してから3月ほど経過したある日、先のフリーダム・ファイターが何者かによって殺害されたという報せが届いた。

「分断」と「亀裂」、「統合」と「対話」

 1990年2月、ネルソン・マンデラが釈放され、ANC(アフリカ民族会議)などの反アパルトヘイト組織も合法化された。その後、ANCとアパルトヘイト政権との間で、ハードネゴシエーションが進められ、1994年4月、全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定され、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全撤廃された。

  ポスト・アパルトヘイトの新政権がたちどころに直面した課題は、人種隔離政策によって「分断」された社会をどのように統合するかであった。
アパルトヘイトとは、肌の色による人種差別という単純な話ではない。それは露骨な分断統治のシステムだった。

 アパルトヘイトとは、apart-heit、すなわち別れた状態のことをさす。居住空間、交通機関、政治参加、職業、学校、子どもたちが遊ぶ公園も、その中にあるベンチでさえも、社会のありとあらゆる物事が肌の色の違いで「分断」されていた。だから一方は他方を見ないで済んでいた。そして自らが立脚する世界を「すべて」と認識し、もう一方に別の世界があることなど知る由もなかった。「加害」の側にいても「加害」の認識は生じえない。

  「分断」は、抑圧される者のなかにこそ「亀裂」をもたらす。肌の色は変えられないが、アパルトヘイト体制に入り込み、利益を得て、自分と家族を養わなければならない「黒い仮面」を被った抑圧側にいる者。警察に雇われ、治安警察のスパイとなり、密告者となって自由を求める者を売り飛ばす。「拘禁」「拷問」「殺害」が繰り返され、「疑心暗鬼」という「亀裂」が縦横に走っていた社会。
「分断」され、「亀裂」の入った社会を修復しなければならない。

 こうした課題を前にして、新生南アフリカは、すべての人種を統合した「虹の国」という理念を掲げた。そして「真実和解委員会」という社会的装置を設置することを選択した。その目的は、アパルトヘイト体制下で行われた政治的弾圧や人権侵害の真相を明らかにし、「被害者」の復権を目指すと共に、南アフリカ国民の和解を達成することにあった。「加害者」は特赦を条件に、その関与した事件について、「被害者」やその遺族を含めた大勢の傍聴者を前にして、すべてを明らかにし謝罪することが求められる。委員長にはノーベル平和賞受賞者であるデズモンド・ツツ大司教(当時)が任命されていた。

 「真実和解委員会」は法廷ではない。そこで誰かを裁くわけでもない。それは、復讐に代わり「対話」を対置し、告白を通じて「加害者」の側に「加害」の意識を醸成させ、「被害者」の正義を復権させることでその心を「癒し」、何が起こっていたのかを全ての者たちが認識することで、「分断」された社会を「統合」しようとする試みだった。

「対話」することと自治

 南アフリカの「真実和解委員会」を境に、リベリア、モロッコ、シェラレオネ、ガーナ、東チモール、ペルー、グアテマラなど世界の様々な地域で、紛争後の社会を統合する試みとして真実委員会という社会的装置が設置されてきた。紛争後社会にあって一方が一方に復讐し、報復を加えることを放置することはできない。「統合」に逆行するからだ。唯一残された手段は、「対話」を通じた和解による「統合」に向けた取り組みだけだった。

 そうだとしても、ポスト・アパルトヘイトの南アフリカで「真実和解委員会」のような社会的装置が開発された意義を忘れてはならない。アパルトヘイトという「分断」された社会の中で育まれてきたストリートコミッティーをはじめとする「対話」を大事にする風土、正当性を持たない抑圧政府に対抗し自らを統治する組織、それらがあったから「真実和解委員会」という社会実験ができたのだろう。「対話」「話し合う」ことの力を信じていたからこそできた試みではなかったのか。

   1990年に出会ったあの若かったフリーダム・ファイターの言葉を噛みしめたい。
We Can Do Everything by Ourselves (through Dialogue).
(対話を通じてこそ、「すべてのことを私たちは自らできる」)。

文責 : 上林 陽治

参考文献:
峯陽一編『南アフリカを知るための60章』明石書店、2010年
阿部利洋『真実委員会という選択』岩波書店、2008年
マンデラ歓迎日本委員会編『ポスト・アパルトヘイト』日本評論社、1992年