地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』2023年7月コラム

鶏塚

菅原 敏夫

東京都大田区、京浜東北線大森駅を発車してすぐ、上りなら向かって左側、線路際に大きな石碑が見える。「大森貝墟」と縦に彫ってある(はずだ)。嘘を書いてはいけないと思って、先日大森駅を出た京浜東北線の窓から目を凝らした。ところが私の今の動体視力では4文字目の偏だとか旁だとかは判別できない。子供の頃、判別可能な眼を備えていた頃には「貝塚」と書いてあるに違いないと思い込んでいて疑わなかった。「墟」という漢字など知らなかったろう。

本稿の真実性を追試してみようと思われる読者諸賢にお伝えしておきたい。実地に確かめるためには、京浜東北線の上り線、できるだけ前の方の車両が望ましい。その位置が、1877年6月19日横浜から新橋に向かうアメリカ人動物学者エドワード・S・モースが、大森駅を過ぎてからすぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見した、というシチュエーションに近い。下り線からだと「貝墟」碑の手前の(大田区ではなくて)品川区作成の「大森貝塚」の巨大な看板に注意を奪われているうちに通り過ぎてしまう。京浜東北線以外の線は大森駅に止まらないので、この付近ではトップスピードに近く、私には絶対見えない。ここは線路が何本も集中していて、碑の前では必ず他の電車の車両が間を通過していて視界をふさぐ。

ところが、私がこの場所を何百回か何千回か行き来している間に通説の方が変化して、貝塚が発見された場所は品川区側であったということになっているそうだ(大田区の負け)。つまり、「大森」貝塚ではなく「大井」貝塚が正しいそうだ。もう今から記憶を修正できないが。

なぜ貝塚を思い出したのか。千年ほど前の大井縄文人は大森海岸あたりで貝を採集し、貝塚ができるほどたくさん食べ生命をつないでいたらしい。これから千年後の考古学は令和クリスタル土器人が何をたくさん食べていたかをどのように推量するのだろうか。

こんな暇な思考を促したのは、生活上のちょっとしたショックだった。昨年暮れ以来鶏卵が値上がりし、品薄状態もきたした。

値上げは、まあ、驚かない。原因は日本銀行が責任を持って断定している。昨年の6月、当時の黒田東彦日銀総裁は「企業の価格設定スタンスが積極化している中で、日本の家計の値上げ許容度も高まってきているのは、持続的な物価上昇の実現を目指す観点からは重要な変化だ」と指摘した。翌々日、黒田は国会で批判されて発言を撤回してしまうが、現代経済理論的には黒田が正しい。ただ、インフレ抵抗性の脆弱な年金家計は、集団自決まで求められて渋々許容しているだけだということを付け加えるべきだった。

鶏卵に関しては、鶏の側の悲劇が付け加わって、価格の非常な高騰と高止まり、生産量の減少が顕著だ。

今シーズン、5月6日時点で鳥インフルが26道県84事例発生し、約1,771万羽が殺処分の対象になった。飼育羽数の1割を大きく超え史上最悪の状況だ。九州から始まって、渡鳥の渡りに従って、今年3月には青森県に達している。青森県蓬田村の場合、養鶏場で鳥インフルウイルスが確認された。県は、県職員等延べ288人、災害派遣の自衛隊員312人を動員。それぞれ1班当たり約60人で1日4交代制で防疫作業に当たったのだそうだ。こうしたことが全国では80余事例も。

家畜伝染病予防法では、国内の家きん飼養農場で、「高」病原性鳥インフルも「低」病原性も同様に、発生した農場の全飼養家きんの殺処分、焼却又は埋却が実施される。感染の原因は、ケージ飼い、超過密飼育、薬の多用による免疫能力の低下など。人災なのだ。

今回の鳥インフルエンザ感染で問題になっているのは、殺処分数が多すぎて、埋却土地が不足していることである。いくつかの県では、土地の所有者と書面での契約がないまま埋却が行われていたことが明らかになっている。ほどなく、埋却場所は分からなくなる。考古学的な手法でしか鳥インフルエンザの影響と、思いっきり三密の飼育環境の反省は明らかにならなくなる。

鳥インフルエンザウイルスと家畜伝染病予防法の犠牲になった鶏。無造作に埋却された鶏。

鶏塚あるいは鶏墟。千年後に誰かが発見してくれるだろう。

(すがわら としお 元公益財団法人地方自治総合研究所研究員)