地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』2025年12月コラム

復興と自治 ― 尊徳の場合

二宮金次郎(尊徳)は、天明7(1787)年に現在の神奈川県小田原の近郊の農村・やま村に生まれた。寛政3(1791)年8月、暴風雨で酒匂川が決壊し、父の二宮利右衛門家の田畑が流出した。寛政12(1800)年、父・利右衛門が死去する。享和2(1802)年、母・よし死去。金次郎16歳、父の実家の万兵衛家に厄介になる。弟二人は母の実家の曾我別所村の川久保家に預けられ一家離散状態となる。

文化2(1805)年、金次郎19歳。このころには、万兵衛宅を出て独立したらしく、米金出納簿を付け始める。この年より米金の貸し付けが見られる。総本家の二宮伊右衛門家の再興仕法に着手。

「「仕法」という言葉は、尊徳流の、その考えに基づく独自のやり方をいう。だから負債整理もあれば、一村の復興もあり、一藩全体にわたる経済立て直しもあった。」(奈良本辰也『二宮尊徳』岩波新書)。

文化3(1806)年、父の利右衛門が売り渡した田畑のうち、田地9畝10歩を初めて請け戻し、生家の近くに小屋を建てて住む。文化5(1808)年、22歳、この年より、米金出納簿に給金の記載が見え始める。文化7(1810)年、所持地が1町4反5畝25歩となる。

文化8(1811)年、小田原藩家老服部家の若党となり、子息の修学を助ける。服部家の使用人を中心に、「五常講」(近代的な信用組合の元祖としては、西欧よりも早いと評価する人もある)を試みる。12月に服部家から家政再建仕法を依頼される。

文政4(1821)年、小田原藩主大久保忠実の命で、分家の宇津家の知行所下野国桜町領(現在の栃木県真岡市)に赴いて調査、9月、桜町領復興の命を受け、名主役挌となる。文政5(1822)年、桜町領への引っ越しのために、所持田畑を売却処分、文政6(1823)年3月、家屋敷を売却処分。翌日妻子共に栢山村を出て、桜町領到着。

金次郎は、桜町領の復興に取り組むが、事業は思うように進捗しなかった。文政12(1829)年正月、桜町陣屋を出奔、成田山新勝寺に参篭し、断食祈願。4月、桜町陣屋に帰って以後、仕法進捗。12月、金次郎の仕法請負期間終了のため桜町領民総代が江戸に出て宇津家に仕法継続を嘆願。天保2(1831)年、仕法請負期間終了後も桜町領に留まり仕法を継続指導。8月、桜町領に飢饉対策を指示。無利息報徳金融創始。

天保4(1833)年より、6年続いたといわれる天保の飢饉に見舞われるが、金次郎が仕法に取り組んでいた桜町領では、金次郎の「備え」により、餓死者がでなかったという。天保7(1836)年、桜町領仕法延長終了。

天保8(1837)年2月、小田原藩、金次郎に仕法実施を正式発令。金次郎は、3月から4月下旬にかけて小田原藩領を巡回して飢民救急仕法を実施する。同年、烏山藩(現在の栃木県那須烏山市)仕法発業。

仕法を始めるかどうかは、尊徳の意思決定と藩官僚制の意思決定とを必要とした。だがこの時期になると、幕藩体制のもとでも、農民層が自ら動いて仕法を起動させるように求めるようになる。

天保9(1838)年、正月20日、小田原藩、2月、相模国足柄下郡上新田村・中新田村・下新田村を対象に小田原藩領の村々の復興仕法開始、日掛縄綯法(農家1軒で1日1縄綯えば、1年で村全体では10両以上の収入となるといった農作業の余暇を活用して現金収入を得ることの督励)を初めて実践させる。嘉永6(1853)年、日光神領復興事業受命。

安政3(1856)年10月20日、尊徳が70歳で亡くなったのは、日光神領や石島村(現在の栃木県真岡市)などの仕法の途中であった。

尊徳の仕法の中心は、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」にあるとされている。それは、現代の「地方財政の立て直しの原理」と同じ原理なのである。そこには、地域と人々の暮らしを実践的に把握する眼があった。

主な参考文献:大藤修『二宮尊徳』吉川弘文館、早田旅人『報徳仕法と近世社会』東京堂出版、小林惟史『二宮尊徳』ミネルヴァ書房、松尾公就『二宮尊徳の仕法と藩政改革』勉誠出版

さわい まさる 奈良女子大学名誉教授)