川崎市のヘイトスピーチ規制の現状
2019年12月に「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」が制定され、2020年から全面施行されている。この条例が有名であるのは、いわゆるヘイトスピーチを罰則付きで禁止している日本で唯一の法規であることによる。ヘイトスピーチを規制する法律として、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(差別的言動解消法)」(2016年)があり、その他に条例として、「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例」(2016年)をはじめとしていくつかの条例(東京都、大阪府、愛知県、沖縄県、相模原市など)があるが、それらは実効性確保のための罰則等の規定をおいていない。川崎市条例は、差別的言動解消法2条が定める「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に対する「地域の実情に応じた施策」(同法4条2項)として条例で独自に罰則付きでヘイトスピーチを禁止するものである。
これらの法律及び条例が禁止している「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の内容を詳述することは紙幅の関係でできないが、こうした規制は、いうまでもなく、憲法21条1項の保障する「表現の自由」の制限、しかも内容規制に該当するので、濫用されないように慎重の上にも慎重になされなければならない(市条例20条)。そのための手続として、外部の法律家から構成される差別防止対策等審査会(会長:吉戒修一弁護士・元東京高裁長官)が設置され、市長の諮問を受けて条例の規制対象該当性の判断を行っている。筆者は、この審査会の委員として、2020年7月から審議に参加している。
川崎市は、差別的言動解消法の制定の契機の一つともなった、2010年代に繰り返し行われた在日コリアンに対するヘイトデモの舞台となった地であり、本件条例もこの事件が重要な立法事実であった。ただ、この条例の施行後は、川崎駅前で今も定期的に行われている政治的主張を行う団体による街宣活動においては、条例が禁ずる差別的言動に該当する発言はなされなくなっている。市条例12条の本邦外出身者に対する不当な差別的言動の禁止に違反するとして本審査会に諮問のあったケースは、この6年間で1件もない。条例を制定した意義が顕著に認められよう。
ただ、インターネット上の不当な差別的言動に該当する書き込みは相変わらず続いており、「インターネット表現活動に係る拡散防止措置及び公表」(市条例17条)に係る市長からの諮問案件は絶えることがない。2025年末までの諮問件数は642件に及び、その大部分についてプロバイダーへの削除要請を行っており、その中の相当数が削除されている。これらの事案では、地理的空間を越えてなされるインターネットを通じた表現活動を自治体が制定する条例で規制することの難しさは否めない。インターネットへの書き込みや動画の掲載が川崎市域においてなされていれば措置の対象とすることができるが、そのことの立証は極めて困難である。したがって、これまで審査会に諮問された案件は全て、表現の内容が特定の市民等を対象としていると認められるものに限られている。いかに悪質な差別表現であっても川崎市民、在勤・在学者等を対象としていると解せなければ川崎市条例の措置の対象とすることはできない。ただ、そうした制約の中でも、市内の特定の地域等を対象とした不特定多数の住民に対するインターネット表現については、審査会の熟議に基づいて条例の禁止対象となり得ると判断され、これは条例の解釈指針においても明示されることとなった。
川崎市は、もともと人権施策に力を傾注してきた伝統を持ち、外国人市民の市政参加の仕組みとしての外国人市民代表者会議制度(1996年)や、一般行政に係る市民オンブズマン制度に加えて子どもや男女平等に関わる人権侵害を対象とする人権オンブズパーソン制度(2001年)をそれぞれ条例によって設置している。ネット上のヘイトスピーチ規制を条例によることの限界は前述のように否定できないが、事柄の複雑さと困難さの故に国の法律が及び腰となっている社会的課題に対する川崎市のこのような果敢な取り組みは、地方自治の見地からも貴重である。外国人問題に関する昨夏の国政選挙に現れた憂慮すべき事態、そして移民問題等に対するアメリカやヨーロッパにみられる世界的な逆風の中では、こうした「全ての市民が不当な差別を受けることなく、個人として尊重され、生き生きと暮らすことができる人権尊重のまちづくり」(市条例前文)を推進する川崎市の取り組みは、一層輝きを放つと考える。