湛山の自治論
今秋ようやく、地方自治総合研究所が12年かけてまとめた『戦後地方自治年表』を東洋経済新報社から刊行できる運びとなった。巻頭の「編者はしがき」を書くとき、東洋経済新報社だけでなく、同社とゆかりの深い石橋湛山にも言及できないかと考えた。湛山といえば戦前はリベラル派の言論人、戦後は大物国政政治家の印象が強いが、戦前ある時期、鎌倉町会議員を一期つとめ、地方自治に関しても一家言持っていたことが記憶にあったからである。そこで『湛山回想』中、湛山が町議時代を語った箇所を数十年ぶりに読み返してみた(岩波文庫版306~316頁)。
湛山が78票で町議に当選した1924年、国政では加藤高明首班の護憲三派内閣が成立し、その後1932年の五・一五事件までは「政党の最もはなやかな時代」であった。だが同時にそれは「党弊のはなはだしきに苦しんだ時代」でもあって、ことに党弊は「地方において、ひどかった」。内閣が変わるたびに知事をはじめ県の主要な役人が替わり、政権党にかつて選挙の際に不利益を働いた巡査が首にされることさえあるといわれた。鉄道や銀行などの事業も政争の具になり、そのため事業が頓挫するなど党弊はきわまった。だから「地方の政治に、中央の政党が入り込むことは、当時の日本の政党の実情では、よろしくないと考えた」。
しかし、湛山の議論はそこで止まらない。むしろそこからが本領である。「中央に政党があるからは、その影響を、地方の政治に及ぼすまいと願ったとて、無理なことである。及んでも、決して悪くない」。だが、政党間の無用な政争が日本を亡国の一歩手前まで追い込み、地方に弊害をもたらした現実を深く考えなければならない。その点に関して、政党は地方党員にまで「十分の組織と訓練とを与え、かれらの言動に誤りなからしめる用意が必要である」。そうしてはじめて政党が「地方の政治に関与し、全国の市町村議員の言動にまで責任」を持ち、健全な政党政治を実現することができる。つまり政党に求められているのは、政党政治の頑健な芯を地方政治にも貫くことである。湛山はそう指摘する。
党弊は当時日本に限らず、政党政治の進展、選挙権の拡張、さらに政府仕事量の増大=利権チャンスの増大といった条件がそろった国では広汎に見られた同時代的な現象だった。M.ヴェーバーは1919年の講演録『職業としての政治』のなかで、独米英を比較しながら、政党政治と党弊の現状に言及している(改版岩波文庫版62~88頁)。
ヴェーバーはとくに国と地方を通じた長の公選制と公務員の猟官制の条件を持つ米国に着目し、ニューヨーク市政を牛耳る民主党が根城にしたタマニー・ホールの名もあげながら、政党政治が「恐るべき弊害、類例のない腐敗と浪費」をもたらしたこと、とくに自治体行政が喰い物にされ、「最も重要な搾取の対象」となったことを指摘する。しかし、だからといってヴェーバーが政党政治や進んで議会政治を一掃すべしと論じるわけではない。今後残された道の一つ「『マシーン』を伴う指導者民主制」に期待をかけるその姿勢にはある種の危うさを感じるが、それでも政党政治の維持・発展という枠組みのなかで議論していたことははっきりしている。
日本にもどる。地方自治に政党は無用、どころか政党は害悪だと論じるのは、生涯政党を敵視した山縣有朋から「政治と台所」を語った市川房枝にいたるまで、戦前日本では広く受け容れられた言説だったといっていい。そうした言説は「党より人」といったより穏当な表現にかたちを変えるなどして今日まで連綿と続いている。それに対して湛山の論じ方は異例である。ただ異例なのではない。国と地方を通じて健全な政党政治あってこそ、議会制民主主義は発達すると考えていたリベラル派の湛山ならではの慧眼だったと見るべきである。
現在、日本の政党政治は混迷をきわめている。なかでも深刻なのは国政与野党の一強多弱時代が再来し、政権与党に対抗できる野党の中心が見当たらない状況に陥っていることである。そうした状況が政党政治に対する忌避感に結びつき、2027年4月の統一地方選挙を前に、地方自治に政党は無用の言説や地方政治家のいっそうの政党離れに回収されていくのを案じるのはおそらく杞憂ではない。野党の国政政治家は湛山の慧眼に学び、いままず国政での政党政治を建て直すために惜しみなく働く必要がある。