地方自治総合研究所

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月刊『自治総研』2026年6月コラム

自治の正念場

嶋田 暁文

日本の地方自治論は、長い間、「地方自治制度がいかに中央集権的であるか」、「自治体が国によっていかに統制されているのか」を論じることに終始する傾向にあった。言い換えれば、地方自治制度の内実とそれを立案・所管する官僚等の意図を踏まえつつ、その集権的志向を明らかにし、自治がいかに制約されているのかを論じていたのである。「地方自治論」と銘打ちながらも、現場における自治の実践の内実に焦点が当てられることはほとんどなかった。

そうした研究の典型例が、赤木須留喜「『地方自治の本旨』とその機能」『思想』1961年5月号である。この論文では、「『地方自治の本旨』の内容に特定の解釈なり価値判断を盛り込むことによって、地方公共団体の組織運営をどのようにでも規定し、場合によっては、動かし、変えることも可能になる」ことが強調され、「地方自治の本旨」が、立法裁量を制約するどころか、「国にとって『あるべき地方自治』」の方向と内容を肯定的に意味づけるための「万能薬」となっていること等が論じられている。

こうした赤木の言説を批判したのが、若き日の西尾勝であった。少し長いが引用しておきたい。「それは非常に敗北的な理論構造になってしまうのではないかと思うのであります。地方自治の本旨というものはあるべき地方自治の原理を表現している規範であります。ですから、その意味内容を中央官僚は自分の都合のいいようにいろいろ構築するかもしれません。しかし同じように地方公共団体側も、国民一人ひとりも、この地方自治の本旨ということばの中に自分なりの意味内容を与えることもできるわけです。中央官僚ができるとまったく同等に、地方公共団体にもそれができるし、国民一人ひとりにもその権利があります。問題はそれぞれの立場から、この地方自治の本旨の内容を積極的に築いていく努力であると思うのです」(西尾勝『憲法と地方自治』北海道地方自治研究所、1977年)。

国が特定の意図のもとに制度を創設し、一定の解釈を示す。それを前提としてそこに「集権性」を見出し、「自治がいかに制約されているか」を論じる。それは一つの学問のあり方ではあるだろう。しかし、そこに終始するとすれば、西尾が指摘する通り、敗北主義的でしかない。

もちろん、法解釈を含めて自治の実践の余地が残されていないような、真に集権的な制度が実現した場合には、「集権性」を批判する以外になすべき術はない。しかし、そうした余地が残されているのであれば、国の意向に反してでも、信念に基づき、制度に自分たちなりの意味内容を充填する形で、自治を実践すべきである。そして、制度に問題があるならば、現場の迫力に満ちた説得力で「制度のどこをどう変えていくべきなのか」を具体的に国に提言し、その変革を迫るべきである。

西尾勝は、“「なる」精神ではなく「する」精神を身につけなければならない”と論じていた(川手摂「西尾勝の『自治』『分権』思想(2・完)」『都市問題』2024年6月号)。ある制度ができたからといって、自動的に良く「なる」わけでも、悪く「なる」わけでもない。その典型例は、2000年分権改革であろう。これによって地域の実情に即した行政運営が実現されるという期待は、果たしてどこまで現実になったのであろうか。

制度で現実は変わらない。現実を変えるのは、あくまで制度を運用「する」主体なのである。だからこそ、「する」主体としての自治体(市民・長・議員・職員等)のありようこそが問われなくてはならない。

そのように考えたとき、このところの地方自治関係者および研究者の言説が敗北主義的なトーンを強めていることが気にかかる。敗北主義的な言説は、「だから、自治の実践ができないのだ」といった形での「あきらめ」(あるいは「言い訳」)しか生み出さない。「国の意向に歯向かうとヤバイ」という空気が蔓延する中、このままでは地方自治はますますジリ貧となっていくであろう。(勘違いしていただきたくないが、「集権性」への批判を含め、制度に潜むさまざまな問題点を指摘すること自体は大事であり、必要不可欠である。問題は、そこに終始してしまうことである。)

思うに、今こそ、自治の実践が必要であり、「する」主体の奮起が求められる。しかし、それはいかにして可能となるのか。紙幅の都合で結論だけ述べるなら、自治体現場の課題を共通の話題としつつ、市民・長・議員・職員・研究者等が集い、互いの経験を学び合い、刺激し合い、励まし合うことこそが必要なのではないだろうか。

まさに自治の正念場である。

(しまだ あきふみ 九州大学大学院法学研究院教授)